幼馴染系女子・本山飛鳥の場合
朝。二月十四日の朝。私、本山飛鳥は焦っていた。別に、学校に遅刻しそうになっていたわけではない。いつもは朝練でもっと早く、耳と鼻を痛くしながら登校する私だ。今日がどういう日か、当日になって思い出したわけでもない。むしろその逆。私は今日という日の意味を、この歳になってようやく、自分にも関わる問題なんだと実感して焦っていたのだ。……隣にいるこいつのせいで。
「なあ、今日さあ、水曜日じゃん」
「そうだけど。だから朝練無いんでしょ。先生方の職員会議があるとかで」
「それはわかってるよ。ありがたいことだよ。それはいいんだけどさあ……本山さん、俺の名前、覚えてる?」
「忘れた」
「そうかー。じゃあまた一から仲良くなろうってことで、教えてあげたいんだけどさー……」
若水健太郎。私の幼馴染。幼稚園に入るよりも前からずっと近所の付き合いがあって、小学校では毎日のように取っ組み合いをしたし、私が中学受験に失敗した時は、なんだお前もここの公立だったのかよ、と同じネタで何度もイジってきて飽き飽きしたし、なぜかこいつが合格してしまった高校で私がそのネタをそっくり真似してやると、おいおい俺にそのセリフは褒め言葉だぜ、と得意気な顔を毎回返してくるむかつくやつだ。
「……で、名前に『水』が入ってるから自分が今日板書することになるんじゃないかと」
「はい」
「それで私にノートを見せて欲しいと」
「はい」
「クラスも違うのに」
「……はい」
他に頼める人間はいないんだろうか。ギリギリの成績でここに潜り込むからしばしばこういうことになるのだ。つくづくむかつく。そもそも今日が何の日か気にも留めずに、仮にも女の私に開口一番でこんな下らない話をし始める、こいつの呑気さにむかつく。
……いや、そう思いながらも私は心のどこかで少しだけ、ほんの少しだけ安心していた。こいつ、今年もまだ私の知っている健太郎でいてくれている。
「あんたのクラス、他に水系の名前の人いるじゃん。水野さんとか、清水ちゃんとか」
「笠松は女子に問題フラないんだよお。あいつ絶対童貞だよ」
いやいや、あんたもだから。……私の知る限り。まあ、仮にも女の私にこんなデリカシーのない言葉を言い放つ間は、そういう浮いた話も出てこないだろう、こいつからは。そんなデリカシーの無さに付き合えてしまうお前はお前でどうなのだという議論は、とりあえず棚に上げておく。
いつもより深くマフラーに首元を埋めて、ノートを貸す貸さないの水掛け論をするうちに、校門が見えてきた。赤信号で一旦足止めを食う。朝日で眩しいトラックの荷台が横切って、それから気づいた。……げ、生徒会長の本郷瑠璃子が立っている。私を焦らせている原因その二だ。くそう。こんな気持ちにさせやがって。ヤツの足元には少し潰れた形の麻袋。中身は見なくても想像がつく。信号が変わる前に策を練らねば。
「ねえ若水。やっぱノート貸したげよっか。いやー、ちょうど新しいノートに突入するタイミングだったの忘れてたわ」
「え! さっすが、やっぱお前は最後には話がわかるやつだな!」
「というわけで……ほら、カバン開けて。今入れてやるから」
「え、あっ、いやいいよこんなとこで……ちょっ! まだ時間も余裕あるのに!」
「いいから……っ! 言うこと聞きなっ……さい!」
こういう時、背負うタイプのカバンは便利だ。無理矢理開けて物をねじ込める。でも逆もまた然りなので私は肩掛け派だ。取り出しやすくかつディフェンスが硬い。
青の時間がやたら短い信号を小走りで抜け、同時にピンチも脱した。こちらに気づいた生徒会長が、目の笑っていない笑顔で近づいてくる。
「おはようございます、ご両人。今日も髪に似合わず余裕の登校だな、感心感心」
「へいへい、そりゃどうも」
この人は生まれつき茶っぽい髪色をした私に、地毛だと言っても信じず反省文を書かせようとした過去がある。別にまあその扱いは慣れてるし、仕方なかったとも思うけど、それをこの人はジョークのつもりで今ネタにしているのだ。むかつく。私の周りはこんな人間ばっかか。
「さあさあ、男子の君は髪色も適正、爽やかな短髪、学ランのボタンも全て留めて、シャツはインしているときた。合格だ。早く教室に行っていい」
「それは模範的な学生として当然のことであります」
和訳みたいな文章吐き出しやがって。いつもは第一ボタン外してるし、だーれも気づかないような地味なワックスだってしてるし、今こうしてちゃんとして見えても、どうせシャツの下はどう見てもダサい洋楽のジャケットがプリントされたTシャツ着てるくせに。こいつはこういうとこ、ちゃっかりしてる。言い換えれば、相手が美人ならちゃんとした格好を装うような、男どものしょうもない習性をこいつも備えてるってことだろう。
「じゃ、俺は先行くから。ノートありがとな」
「あ、ああ……うん……」
バッカ。こいつの前でそんなこと言うと……!
「ほう。ノートを貸すとは仲が良いようだな。あの好青年と」
ほら来た! 好青年って的外れな評価に吹き出しそうになったけども、ギリ耐えた。
「別に。ただの腐れ縁です」
「ふーむ。詳しく話を聞きたいところだが……さて、荷物検査だ。もう彼の姿は見えなくなったぞ。存分に見せても大丈夫だ」
私の通学カバンを指差しながら、遠回しに命令した。荷物検査とは言うけど、本当の目的は誰もが知っている。
「はい、存分にどうぞ。実に模範的な持ち物でしょう?」
「どれどれ。うん……見たところ問題はない、が……ううん? この小袋はなんだ」
「ソーイングセットです。あ、古風な先輩には裁縫道具一式と表現しないと伝わらないのでしょうか」
「はは、馬鹿にするな。英語くらいは今時のレディの嗜みだ」
やはりこの人はどこかズレている。そりゃそうか。そうでないとこの進んだ時代に、「バレンタインデーでの義理チョコ贈答禁止」なんて迷惑極まりないキャンペーンを推し進めるわけないしね。まさか自ら校門に立って取り締まりをするほど本気とは思ってなかったけど。しかも朝一から立っていたんだろう。それは無造作に置かれた麻袋から覗く、かわいい包装紙の山が物語っていた。
「……それ。そのチョコレート、どうするんですか。自分でいただくんですか」
「そんなわけないだろう。近隣の施設に寄付するんだ。私が食べ物を無駄にするわけがないだろう?」
どうだか。あなたは寿司のネタだけ食べてシャリを残すような行為がお似合いって風貌してますわよ、先輩。
「それを聞いて少し安心しました。行っていいですか」
「うん、合格だ。……ああ、それと」
まだ何かあるのか。
「『食べる』の尊敬語は『召し上がる』だぞ。以後、気をつけるように」
……わざとに決まってるでしょ!! ぜっんぜん間違えたわけじゃないから!! 誰があんたなんか尊敬してやるもんか!!
毎年、毎年、私は健太郎にこの時期、チョコを渡していた。別に、ただ、何となく。最初は小学校に入る年だったと思う。私のお気に入りの手袋を片方、あいつが奪って無くしたと思ったことですごい喧嘩になって、覚えたての言葉で「絶交だ!」って言い合うような……今思えばかわいい喧嘩だったなあ。結局、手袋はその日イライラして家に帰ってから、私のコートのポケットから出てきたのだった。すっごく顔が熱くなって、悲しくて、ちゃんと確認しなかった自分を恥じているんだ、なんて分析をあの頃、子どもだった頃の私ができるはずもなくただただ泣いて……。
そんな時、お母さんが私の頭を撫でながら教えてくれたのだった。あーちゃんは優しいね。自分が悪かったと思ってるから泣いてるんだよね。でもね、本当にそう思っているなら泣いてばかりいちゃダメ。ちゃーんと健太郎くんに会いに行って、ごめんなさいしなくちゃ。……あーちゃんは優しいから、神様がちゃんと、チャンスをくれたんだよ。明日はちょうど、女の子が男の子にお菓子を渡しに行く日だからね。あーちゃんの好きなお菓子を持って行ってあげなさい。その時にちゃんとごめんなさい、ってすれば、健太郎くんも優しいから許してくれるわよ。
たぶん、小分けのチョコがいくつも入ったお菓子を一箱、お母さんは持たせてくれたんだと思う。赤いパッケージの、四角いやつ。どのメーカーのだったかは覚えていない。ただ今でも忘れられないのは、心細い中ひとりで健太郎の家まで行ってドアを開けてもらうと、「絶交だ!」とまで言い放ったあいつが、その喧嘩のことをすっかり忘れていたということだ。それでまた喧嘩になったのは言うまでもない。
それからずっと、別に、何の気もなしに渡していて……。バレンタインデーを忘れかけていた年には、ポケットの奥に残っていた小銭で、遠足に持って行くみたいなやっすい駄菓子を渡したこともあったし、友達の影響でお菓子づくりに目覚めた時には、いい実験台になってもらったり……高校受験の勉強真っ只中の頃は、セール品だったチョコの外箱に「せいぜい頑張りな」みたいなぶっきらぼうな応援を書いて、机の中に入れておいたりして……。あいつの合格が決まった時には、大げさなお返しをくれたり、さ。してくれて……。合格おめでとう! 俺に負けずによく入れたな!(原文ママ)ってメッセージが癪に障ったけど。
くそう。私らしくない。別に何の気もないんだ。ないんだよう……くそう……。義理だって思って今まで渡して……渡せていたんだ。こんなこと気付きたくなかった。流行りのイケメン俳優とかフツーに格付けできるし、憧れの先輩誰?って話題にはすぐ答えられるようにしてるし、なのにこんな……。
義理チョコを渡さないとなると、今までのあいつとの関係が終わってしまう気がした。ああ、こいつにとって俺はその程度の存在なんだ、と思われる気がして。それが怖かった。そんなことないのに。あいつの替えなんて居ないのに。今までの関係をこんなに恋しく思った夜は無かった。普通にメールして、普通に電話して、漫画とか貸し合ったり、旅行先の写真見せ合ったり、バカにされたり、バカにしたり、いきなり真面目なこと言ってみたり、いきなり真面目なこと返されたり……。
だから私は今日、実はチョコを用意していた。ギリギリの決断だった。義理だけに。うん、我ながらつまらん。でも本当のことだ。夜中どうしても眠れなくて、こっそり家を抜け出してコンビニへ行った。いけないことをしている気がしたけど、楽しかった。こんな夜中に、しかも二月十四日になってようやくチョコを買うような女はなんなんだ、と気だるげな店員さんに思われることもなく、ミッションはコンプリート。一箱三十枚入りくらいの薄くて、ちょっとにがめのチョコ。それを一枚だけつまみ取って、今朝カバンに忍ばせたのだ。制服のポケットだと溶けそうだし、コートのポケットは……なんかいい思い出無いしね。それをこっそり、小さな学校なんだから、どこかで渡せるだろうと思っていた。小さなチョコだから、どう見ても義理だと思われるだろうし。
それでも朝、生徒会長の荷物検査に出くわしてギクリとした。この人本気かよ……。ここでバレたら色々と台無しだと頭をフル回転させた私は、健太郎の頼みに乗っかって、急遽渡すつもりの無かったノートを託したのだ。ページの隙間に薄いチョコの包みを挟んで。
どこかよそよそしく、そわそわした雰囲気の教室を置き去りにするように、今日の授業が終わった。よく考えたらチョコなんて、学校で渡さなきゃいけないなんてルールはないんだ。家へ帰って着替えてから渡しに行った方がロマンチックだろう。こういうとこ、私はつくづくダメだな。……本当は繊細なんだぞ。義理チョコを禁止されてる中でチョコを渡すって、どんな意味かわかってんのかこら。でもまあ……あいつ鈍感だからわかんないだろうなー。フツーに言いふらしそう。それは本当やめろよな。
「おーい。本山ー。本山さーん」
帰り支度をしていると、廊下の方から私を呼ぶ声がした。声変わりをしてもうすっかり聞きなれた声。朝も聞いた声。
「……なに」
「ノート。ありがとな。おかげで助かったよ」
「ふふん。ま、あんたよりは出来ないとここじゃやっていけないからね」
この調子……。こいつ、気づいてないな。はぁぁぁ……今日一日の私のモヤモヤはなんだったんだ、まったく。というか、チョコのことなんか全然気にも留めてないんじゃないかこいつ。そういうタイプだったの忘れてた私はバカか……?
「じゃあ俺、先行くから。ちょっと用事がね……あのね」
「えっ……」
えっ、まさかこいつ、えっ。えっ、この後、この日に用事って、えっ……嘘でしょ……?
「あ、そうそう。ノートの最後の方さ、赤ペンのインクぶちまけて汚しちゃった」
「ちょっ……ちょっと! テスト前に見直すのに!」
「悪い悪い。隠さずに白状したから許してくれ。……ま、本体に影響はないと思うから、確認しといて」
じゃ、と私の手にノートを残してあいつは行ってしまった。若干小走りで。嬉しそうな感じで。
……うん、私の負けだ。堂々と、「これは本命です」って言えるチョコを持ってこなかった私の負け。だって本命は禁止されていないんだから。ああ、今更そこに気づくなんて。やっぱりダメだなあ、私。
むしろ爽やかな気持ちで、何気なくあいつに言われた通りノートを確認すると、目立った汚れなんて全く無かった。なんだなんだ。あいつの勘違いか? ……いや、何か挟まってる。最後のページ。これは……私があげたチョコの包み紙だ。
私があげたチョコの包み紙だ!!! 何か、何か書いてある!! あいつの字で、あいつのきったない殴り書きで何か文字が並んでる!!
『ありがとう。昇降口で待つ。よかったら来て』
……どうやら私の危惧していた通り、私と健太郎の今までの関係は、終わってしまうらしい。