95.本物と偽物
「嘘だ」
エリシアが次に発した一言は、そんな否定の言葉だった。
目の前で、ナリアの頭を優しく撫でる女性――三年前とまるで変わらない姿で、母のフィリエがそこに立っていた。
「おかあさんここにいたの!?」
「ふふっ、そうよ。本当に大きくなったのね。ナリア、お姉ちゃんの言う事きちんと聞いている?」
「うん!」
「そう……相変わらず元気ね。エリシアも」
フィリエに名を呼ばれて、エリシアはビクリと身体を震わせた。
目の前にいるのは母の姿をしている。
けれど、エリシアは知っている。
母のフィリエはもう、この世にはいない。
亡くなる前の弱った姿も、よく知っている。
亡くなった後の事だって――
「嘘、だ」
だからこそ、もう一度その言葉を繰り返す。
目の前にいるのは母ではない。
それを肯定するために、エリシアは否定する。
そんなエリシアの言葉に答えてくれたのは、フリフラだった。
「うふふっ、その通りよぉ」
「……え?」
「嘘、偽物――まさにその通りなのねぇ。彼女は本物ではないわぁ」
ひらひらとエリシアの周囲を飛び回りながら、フリフラは続ける。
「彼女――フィリエはあなたのお母さん。けれど、ここにいるのは偽物なのぉ。でもねぇ、あなたのお母さんは今どこにいるの?」
「それは――」
エリシアが答えようとして、言葉に詰まる。
ナリアには、母は旅に出たと伝えてある。
直接的に『死んだ』という言葉を使った事ない。
それを言えば、ナリアにも伝わってしまうだろう。
「そう、亡くなった――旅に出たのねぇ」
「……っ!」
そんなエリシアの心の中を読んだようにフリフラが続ける。
本当に、全てを見透かされているような気分になった。
「フィリエは偽物。それを偽るつもりはないわぁ。けれど、ここにいるのはあなたの母であるフィリエ。それは本当」
「……どういう事、ですか?」
「私ぃは記憶を他人の記憶を読み取る事ができるのぉ。触れている間に、あなたの記憶を読み取らせてもらったわぁ」
フリフラの言葉を聞いて、エリシアも気が付いた。
リボンのようにエリシアの頭に貼り付いていたのは、そういう意味があったのだ。
パタパタと周囲を飛び回るフリフラは、やがてエリシアの胸元で静止する。
「どうかしらぁ。久しぶりのお母さんとの再会はぁ」
「こんな事に、何の意味があるんですか……?」
「こんな事だなんて、私ぃは純粋に聞いているのよぉ? あなたはお母さんに会えて、嬉しくないのぉ?」
「それ、は……」
「おねえちゃん……?」
ナリアが心配そうにエリシアの方を見ていた。
それに比べると、フィリエは変わらず優しげな微笑みを浮かべている。
エリシアの記憶にある通りの、優しい母の姿だった。
「お姉ちゃんは私と久しぶりに会って、驚いちゃったのね」
「そうなの? わたしもびっくりしてるよっ」
「ふふっ、そうね。大丈夫、二人とも強い子だって、私はよく知っているもの」
フィリエが言葉を発するたびに、エリシアの呼吸が速くなる。
フリフラも肯定している――目の前にいるフィリエは偽物だ。
偽物だと分かっているのに、心の中で否定を続けても、目の前にいるフィリエはいなくならない。
確かに、そこの存在している。
「そう――ここにいるのよぉ。あなたのお母さんは」
「なん、で、こんな事……」
「私ぃはすでに答えたはず……人の幸せが好きなのぉ。あなたはお母さんに会えて幸せを感じないのぉ?」
「わ、私は……」
「驚いているけれど、嬉しいのよねぇ。認めたくはないけれど、会えて嬉しいのよねぇ。その気持ち、よく分かるわぁ」
「……っ! 違う……お母さんは、もういないんだから」
「いるわ、ここに」
「偽物だって……」
「偽物と本物の境界はどこにあるのかしらぁ?」
「境、界?」
「そう……ここでああやって、娘を愛おしく見つめる母が偽物だと思う? 確かに私ぃは偽物と言ったわぁ。何故ならそれは私ぃが作り出したものだから。けれど、それはあなた達にとってはどうなのかしらぁ?」
「私達にとって……?」
「そうよぉ。少なくとも、ここにいるフィリエはあなた達の事を知っている。そして、あなたはここにいるフィリエを知っている。それならもう、偽物でも本物でもどっちでもいい事よねぇ。だって、ここにいるのは本当にあなたのお母さんなのだからぁ」
「どっちでもいい事なんて、ないです……!」
エリシアが少し声を荒げると、フリフラはパタパタと飛び立ち、エリシアから離れた。
「うふふっ、ごめんなさいねぇ。怒らせるつもりはなかったわぁ。私ぃが純粋に言いたいのは、偽物か本物かなんて気にせずに接したらいい――そういう事。妹ちゃんみたいにねぇ」
フリフラの言葉を聞いて、再びフィリエとナリアの方に視線を向ける。
フィリエはナリアの話を聞いていた。
「それでねー、モーゼフはお空も飛べるんだよ」
「そうなの? ふふっ、お母さんも見てみたいわ」
「ちょうどここにも来てるんだよ」
「あら……それなら二人がお世話になったご挨拶もしたいわね」
それは、以前よく見た光景だった。
母のフィリエに、ナリアが話をする。
フリフラの言っていた通りだ――偽物と本物という区別が、エリシアにもつけられない。
そこにいるのは、本物の母のフィリエにしか見えないからだ。
「……あ」
フィリエがエリシアの方を見ている事に気付く。
エリシアは胸に手を当てて、握り締める。
呼んでしまったらいけない気がする。
けれど、フィリエに向けられた視線を受けて、エリシアは自然と口にしてしまっていた。
「お母、さん」
「……なぁに? エリシア」
「……! お母さんっ!」
もう一度、エリシアはフィリエを呼ぶ。
幼い子供のように、エリシアはフィリエの下へと駆け寄った。
「ふふっ、エリシアも、本当に大きくなったのね」
「うん……お母さんがいなくなってから、色んな事があったけど……私頑張ったんだよ」
「ええ、エリシアの話も聞かせて」
エリシアがそんな風に気にせず甘えられる相手は一人しかいなかった。
フィリエがエリシアとナリアの頭を優しく撫でる。
フリフラが少し離れたところから、エリシア達の様子を見守るように花へと降り立ち、その様子を見守る。
「うふふっ、二人の幸せそうな姿が見られて――私ぃも幸せだわ」
パタパタと羽を静かに動かすたびに、エリシアとナリアが目指す先の道が徐々に閉じられようとしていたのだった。




