36.覚悟
かつて、少年は祖父に教えられて剣を学んだ。
祖父は有名な剣士というわけではないと言っていたが、実力はそうした有名な剣士たちにも劣らない人物であったらしい。
そんな祖父が少年によく戦ったことのある剣士の話をしていた。
中でも最も印象に強かった話は、今でこそ大賢者と呼ばれている男が、かつては剣士として名をはせていたということだ。
単独で次々と相手を斬り伏せる様は《鬼神》とまで呼ばれたらしい。
祖父もその男には勝つことができなかったと言っていた。
だからこそ、憧れにも近い感情と同時に、剣を教えてくれる祖父よりも強い男を超えたいという気持ちを強く持った。
もし、いつか会えることがあれば、一度でいいから剣を交えたい。
少年はそう願った。
***
モーゼフの取り出した剣は翡翠色の、宝石のような剣であった。
ユースはモーゼフが構えたのを見て、先に動く。
両手で剣を握り、横一閃。
モーゼフはそれを剣で受け止める。
ヴォルボラとの戦闘では、硬い鎧のような鱗を斬るための力強い振りだった。
今は剣を早く振り、斬り伏せるための一振りだ。
だが、それも難なく防がれる。
「エリシア、ヴォルボラの治療を」
「は、はいっ」
モーゼフの言葉に、エリシアが駆け出す。
ユースはエリシアには目もくれない。
そのままモーゼフとの斬り合いを始めた。
モーゼフ自身、剣を振るうことは久々だった。
だが、ユースの振るう剣を悉く受け流す。
老人のままであったのならば、ユースに剣術で勝つことはなかっただろう。
いまのモーゼフは老いを感じさせない動きをすることができる。
全盛期とはいかないまでも、十分に剣を振るうことができた。
「まさか、本当に剣で戦ってくれるとはな」
「ほっほっ、お前さんが望んだことじゃろう?」
「ああ、感謝する!」
キィン、と剣がぶつかりあうたびに金属の音が響き渡る。
ユースの剣撃は圧倒的なまでの速さだった。
風を切る音と、それに合わせるように金属の音がまた鳴る。
モーゼフはその速度に追いついていた。
むしろ、モーゼフの方がわずかに速いと思わせるほどに。
(なん、だ。速い――)
その場からほとんど動いていない。
剣を握った右腕とわずかに振るうたびに身体が動くだけだ。
「ふっ――」
一呼吸、その間に何度も剣が交わる。
圧されている――ユースは完全に理解した。
剣を振るう速さでは負けていない。
むしろ、ユースの方が速いはずだった。
(読まれているのか……!?)
ユースの振るう剣を、モーゼフは見て防いでいる。
速さだけならばモーゼフよりもユースの方が速い。
それを身体の動きを最小にすることで、モーゼフはユースの攻撃に追いついていた。
その状況に、ユースは笑みをこぼす。
(老いてもなお衰えないということか――さすがだ)
「む……」
ユースの剣の動きがわずかに変化する。
緩急をつけることで、モーゼフの読みにズレを生じさせようとしていた。
モーゼフの動きがやや大きくなる。
(やりおるの……だが)
だが、モーゼフもそれに合わせる。
どちらも退かぬ攻防が繰り広げられていた。
エリシアはそれを横目でみながら、ヴォルボラの方へと駆けよる。
剣による傷痕からはひどく出血していた。
「すぐに止血します……っ」
「エリシア、我は一度お前を疑った……」
「そんなこと……」
「すまなかったな」
「……っ! 私がもっと強ければ……」
「お前は十分に強い。我を恐れぬのだからな」
キィン――二人の会話の間にも、モーゼフとユースの戦いは続いていた。
ユースがモーゼフの防御をかいくぐる。
モーゼフはそれを見て、笑った。
「ほっほっ!」
「ちっ、当たらないか……!」
モーゼフは身体を反らしてそれを回避する。
どうしても、ユースの剣先はモーゼフを捉えることはできない。
流れる川に対してただ剣を振るうように、とらえどころのない相手と戦っているようだった。
今までの剣士とは異なる――かつて耳にしたモーゼフともまた異なる印象を受ける。
それでも、モーゼフが強いことには変わりはなかった。
幾千と続くかと思われた剣撃の攻防は、ユースの剣が弾かれたところで終わりを告げる。
ユースが数歩、後ろへと下がった。
「二回じゃ」
「……なに?」
「今の戦いの中、わしがお前さんを斬ることができた回数じゃよ」
「……そういうことか」
ユースにも分かっていたことだった。
モーゼフを斬るつもりではなかったとはいえ、ヴォルボラに対する一撃を指で止められている。
ましてや、すでに全盛期を過ぎた剣士であるモーゼフに互角に持ち込まれている。
ここに魔法が加われば――いや、魔法だけならすでにユースは敗北していただろう。
それでも、ユースは再び剣を構える。
「まだ続けるか?」
「敗北が分かっていたとしても、目の前のものを放っておくことはできない」
「お前さんの言う目の前のものというのは、あれか?」
モーゼフがそう言って指をさす先には、ユースが斬ったヴォルボラの傷を懸命に手当てするエリシアの姿があった。
それを、ヴォルボラは静かに見つめている。
「まさか、本当にこんなことが……」
「こういう事もある。魔物の中にも人と触れ合うことができるものがいるように、ドラゴンもまた同じじゃよ」
ユースが首を横に振る。
目の前の光景を見たとしても、ユースにはまだ納得ができなかった。
「ドラゴンとそこらの魔物と同等なわけがない」
「いや、変わらんよ。ただそれぞれに個性があるだけじゃ」
「規模が違う。ドラゴンが暴れ出したらどれほどの被害があるか――」
「あのドラゴンは暴れなかったじゃろう。お前さんに斬られても、静かにしていた理由は一つじゃ。エリシアの覚悟に応えたんじゃよ」
ユースの言葉を遮るように、モーゼフが言う。
抵抗をしなかった――ユースも違和感はあった。
元々、ヴォルボラというドラゴンは戦う素振りをあまり見せようとしなかった。
ここにきて、さらに抵抗を一切しないというのは怪我をしているにしてもおかしいと感じていた。
それが、エリシアに応えるためだというのだ。
「……そのたった一人の覚悟に、ドラゴンが応えたから何になる。このドラゴンがどこかの場所で暴れないとは限らない。お前のやっていることが間違いだとは思わないのか? その子が後悔しないと本気で言えるのか?」
「間違いも後悔も、先に来るものではない。エリシアはそれも含めて覚悟を決めたんじゃ」
モーゼフはさらに言葉を続ける。
ユースはきっとまだ納得できないだろう。
それでも、納得しないというのなら、モーゼフの賭けることができるものを使う。
「それでも納得できないというのなら、この大賢者モーゼフがすべての責を負うことを誓おう」
モーゼフの言葉に、ユースが目を見開く。
その言葉をモーゼフが言ったことが信じられないといった様子だった。
「……っ! その言葉の意味が分かっていて言っているのか? あなたが積み上げてきたすべてが、たった一瞬でなくなってしまうかもしれないんだぞ」
ヴォルボラの今後の行動のすべての責任を負う――大陸は違うが、モーゼフがそうしたという事実はユースにも露見させることができる。
伝われば、モーゼフはもう大賢者と呼ばれた存在でも何でもなくなる。
それを捨てても構わないとモーゼフは言っているのだ。
モーゼフは静かに頷く。
「そうじゃな。その上で言っておる。大賢者などというのは他人の評価に過ぎん。今のわしはただのモーゼフというしがない老人じゃ。それでも、わしの名が必要であるというのなら惜しみなく使おう。そう決めておるのでな」
「それがあなたの覚悟か」
「その通り」
「目の前で起きていても、俺には到底信じられないことだが……」
「ほっほっ、それでもわしとお前さんなら分かり合えるのではないか? こうして剣を交えた仲じゃ」
「わしに貸しを作るようなものじゃと思えばよい」とモーゼフは付け加えて笑う。
ユースはしばしの沈黙のあと、エリシアとヴォルボラを見る。
エリシアはまた、ヴォルボラを庇う様な仕草を見せた。
そして、ヴォルボラも同じだった。
ユースは目を瞑る。
「……迷いのないまっすぐな剣だった」
「ほほっ、それはお前さんも同じじゃよ」
ユースは再びモーゼフを見る。
モーゼフには、ユースが少しだけ笑っているように見えた。
「あなたが、そんな風に自身の名を使うとは思わなかった」
「失望したか?」
「いや――思っていた以上に人間らしい方のようだ。ただのモーゼフという方が納得する」
そう言って、ユースは剣を納める。
去り際に、ちらりとまたヴォルボラの方を見た。
一瞬だけ、視線が交わる。
「……俺はもうそのドラゴンは追わない。だが、もし暴れるようなことがあれば――」
「そのときはわしが責を負う。その後は好きにしてよい」
「ああ、他の奴らにはこう伝えておく。ドラゴンはもうこの大陸から飛び去ったのだろう、とな」
ユースはそう言って、その場から去っていった。
モーゼフも剣を地面に突き刺す。
ゆっくりと地面へと剣が沈んでいく。
モーゼフはエリシアとヴォルボラの方へと向かっていく。
「もう大丈夫じゃよ」
「モーゼフ様、ありがとうございます……」
「ほっほっ、気にしなくてよい。ヴォルボラの怪我の様子はどうじゃ」
「心配する必要はない」
そうは言いながらも、出血はかなり酷い様子だった。
モーゼフはそれを見て、ある魔法を発動する。
ヴォルボラの周囲に大きな根が包み込むように生えてくる。
それらはヴォルボラの傷口を撫でるようにして固定した。
「しばらくすれば血は止まるじゃろう。わしも責任を持ってみると言ってしまったのでな。このくらいはやらせてもらう」
「……感謝する」
ヴォルボラは素直にそれを受け入れた。
やがて、身体を丸めて眠るように目を瞑る。
落ち着いた様子だったが、ふとエリシアの名を呼んだ。
「エリシア……お前は我の声を聞いたと言っていたな」
「は、はい」
「ああ、そうだ。わしはある人物の名を呼んでいた」
「ある、人物?」
「……かつて、我のことを友と呼んだ者のことだ」
ヴォルボラはそう、静かに語り始めた。




