112.クラーケン
ザァ、ザァと波の音だけが周囲に響く。
レグナグルが消えてしまった方向を、モーゼフが静かに見つめていた。
海からエリシアとナリアの二人は出てくるが、ヴォルボラだけはまだ海の中にいた。
「ヴォルボラ様!」
「我は心配ない」
エリシアが叫ぶが、言葉にそう答えるヴォルボラ。
エリシアとナリアはモーゼフの身体の一部を回収しており、それをモーゼフに手渡す。
一部――というより、かなりの部分が欠けていたが。すぐに海の中からモーゼフの骨が戻ってくる。
アンデッドになってから、それら骨の操作についても随分と慣れたものだった。
一部を除いて完全に復活したモーゼフは、ヴォルボラの横に立つ。
「ふむ、この気配は……やはり奴か」
「やはり、ということは――またお前の知っている奴か」
ヴォルボラが少し呆れたような表情でモーゼフを見る。
海の中で絡んでくるような相手を考えれば――およそ普通の相手ではないということは分かる。
海の中から感じられる魔力は非常に強く、およそ人間のレベルのものではない。
「《クラーケン》じゃろうな」
「え、クラーケン!?」
モーゼフの言葉に反応したのはナリアだった。
以前、モーゼフはクラーケンの話をナリアにしたことがある。
海の支配者――そう呼ばれるほどの存在であるが、クラーケンはあくまで種族の名だ。
その中でもモーゼフが知っている者となると、クラーケンの中の《王》ということになる。
ナリアも、一度は会ってみたいと考えていたのかもしれない。
海の方へと入ろうとするナリアをエリシアが止める。
「ダメよ、ナリア。モーゼフ様とヴォルボラ様の邪魔をしては」
「えー、でもクラーケン見てみたいっ」
珍しくそう反論するナリア。
今回は見てみたいという気持ちが勝っているようだが――モーゼフは砂浜の方へと戻る。
「ほほっ、クラーケンはあっても楽しいと思えるものではないぞ」
「そのクラーケンがどうしてここにいる」
「さて、の。仮にわしが海の中を長時間行動していた場合はやってきてもおかしくはないが――」
「ぬわははははっ!」
モーゼフの声を遮ったのは、空から響く聞き覚えのある声。
落ちてきたのは、海の底へと消えてしまったはずのレグナグルだった。
ぽふん、とモーゼフの頭に着地する。
「え、レグナグル!?」
「ど、どこから……?」
「数十分ぶり、というところかの」
驚くナリアとエリシアに対して、モーゼフは動揺する様子もなく頭に乗ったレグナグルに話しかける。
レグナグルもまた、特に変わった様子もなく答えた。
「奴が近づいてきているのは分かっていた。分身をもう一体用意しておいて正解だったようだな!」
「ふむ……ということはお前さんの一部は食われてしまったということかの?」
「元々その傾向はあったからな。今回の件――アーギュンテの奴も関わってこようということか」
「なるほどのぅ」
『今回の件』というのは、レグナグルがモーゼフのところへとやってきた理由だ。
アーギュンテ――この世界における最強の魔物の一体であり、唯一複数の《神域》を持つ者だ。
それは、彼が海の支配者であるという言葉を体現している。
陸地を全て含めても、この星の海の面積には勝つことはできない。
それほどの広大な海を支配下としているものこそ、《海王》とも呼ばれるアーギュンテだ。
もっとも、広い海を全て統治するのは不可能といってもいいだろう。
だからこそアーギュンテは神域を常に広げて、そして遊泳し続ける。
自身の存在を知らしめるかのように、だ。
「わしの一部も持っていかれたの」
「持っていかれただと?」
ようやく海から出てきたヴォルボラの問いかけに、モーゼフは頷く。
先ほど遊ぶために流していた骨の一部が、モーゼフの下へと戻って来ない。
レグナグルの分身同様、奪われてしまったということだ。
「ぬはは、私は一パーセントにも満たない力の一部を取られただけだ。気にするほどでもないが」
「そういう意味では、わしも気にするほどではないがの」
「えーっ!? モーゼフの『ゆーふく』取られて大丈夫なの?」
「ほっほっ、心配せんでも、ナリアにはまた『ゆーふく』を分けてあげるからの」
「でも、モーゼフのが取られちゃったのなら取り返さないと……」
「心配してくれるとはナリアは優しいのぅ。まあ、わしの一部のことは置いておいたとしても――この海を渡るには考えねばならん問題じゃの」
「え、この海を渡るんですか?」
モーゼフの言葉に反応したのはエリシアだった。
こくりとモーゼフは頷いて答える。
「うむ、お前さん達には言ってなかったかの? 広い海を超えた先――そこに今回の目的地があるんじゃ。そのために船で移動する予定だったのだがのぅ……」
水平線を見据えて、モーゼフは考える。
海の向こう側の大陸――そこに目指す先はある。
今はあくまで、その間の休息を兼ねていた。
それなのに、今は海で遊ぶこともままならない状態になってしまっている。
「ぬはははっ! では、やるべきことは決まったのではないか?」
モーゼフの頭に上で笑いながら、レグナグルがそんなことを言う。
モーゼフも気付いている――この近くに、アーギュンテの《神域》の一つがあるということを。
「ふむ……《海底洞窟》かの。誘われているというべきじゃろう」
「海底洞窟!? なにそれ!?」
またナリアが興味津々と言った様子でモーゼフに尋ねる。
ぽんぽん、とナリアの頭を優しく撫でながら、モーゼフが答える。
「言葉通り、海底にある洞窟じゃよ。昔は陸地だった場所が海底に沈んだり……あるいは地盤のズレによって生まれたところじゃな」
「今からそこに向かうんですか? でも、海の中だと息が……」
エリシアの意見はもっともだ。
だが、モーゼフだけであれば何も問題はない。
呼吸を必要としないアンデッドなのだから。
モーゼフ一人で向かうのが正解なのかもしれないが、エシリアやナリアを見る限りついてくる気は満々――といったところだった。
当然、そうなるとヴォルボラもついてくるだろう。
それを踏まえた上でモーゼフは答える。
「ほほっ、わしならばそのくらいの問題は解決できる」
「どうするの?」
「ほほっ、海の中を進む船――《潜水船》を使うとしようかの」
モーゼフの言葉に、その場にいた全員が首をかしげる。
モーゼフだけが「ほっほっ」と笑い声を上げていた。
次の目的地へ向かう前に――海底洞窟にレグナグルの一部とモーゼフの一部を回収しにいくことになったのだった。