109.初めての海
海に近づけば潮の香りがする――けれど、今のモーゼフにはそれは分からない。
ただ、波の音が近づいているのは分かる。
ザァ、ザァと聞こえるのは海が近い証拠だった。
「この音は……?」
エリシアが不思議そうにモーゼフに尋ねる。
川なら流れる音を聞くことはあるだろうが、
「波の音じゃな。大きな湖でも波が発生することはあるが、エリシアは見たことがないかの?」
「そうですね……こんな音は初めて聞いたかもしれないです。山の方では鳥の鳴き声とか、虫の鳴き声とか……後は木々を揺らす風の音とか、そういう方が多いかと」
「そうじゃの。わしもそれを好んで森の方を終わりの地としようとしたからの。静かでいいところじゃが、海もまた違った楽しみ方がある」
「違った楽しみ方、ですか?」
「うむ。ほほっ、まあ実際に見てみるとよいじゃろう。さ、そろそろ見えてくる頃じゃ」
林道を抜けて行く。
森の隙間からでも、モーゼフの側からは少しだけ海が見えていた。
エリシアはそれに気付いた様子はないが、時折波の音に反応してか耳がぴくりと動く。
表情こそ特に変わらないが、海のことが楽しみなのか少しそわそわとしていた。
エリシアの妹であるナリアも海を見たことはない。
ヴォルボラやウィンガルに海について聞いていた。
「海ってどんなところなの?」
「もうすぐ着くなら実際に見た方が早い」
「えー、でも知りたいもん」
「少しくらい我慢できないのか……」
「ここまで我慢したよ?」
「それなら後少し我慢しろ」
「ヴォルボラとウィンガルのお話しが聞きたいの!」
「とにかく広い水場だよ。そのあたりはご老体からも聞いたことがあるのではないかな?」
ヴォルボラがやや面倒臭そうなのに対して、ウィンガルがナリアの疑問に答える。
基本的にウィンガルはナリアに対して特に優しい。
もちろん、エリシアに対してもほとんど変わらないが。
「うーん、いまいちよく分からない……」
「だから見る方が早いと言っている」
「ぬははっ、そう言いながら引っ張るな」
相変わらずレグナグルは引っ張られているままらしい。
そんな一行が目指す海は、もうすぐそこだった。
「ほっほっ、見えてきたぞ」
「どこどこっ?」
エリシアよりも早く反応したのは、馬車の中にいたナリアだった。
ガバッとモーゼフの頭の上に乗るような形で身を乗り出してくる。
「こら、ナリア。モーゼフ様の視界を遮っては危ないでしょう」
「じゃあこう?」
ナリアはそのまま、モーゼフの肩の上に乗る。
丁度肩車をするような形だ。
モーゼフも慣れたもので、ナリアがそうするときは無闇に動くようなことはしない。
「ほっほっ、その高さなら良く見えるじゃろう」
「え……あの大きな水溜り!?」
「! そんなに大きなものが……?」
ナリアの驚く反応を見て、エリシアも気になったようだ。
ナリアに注意していたにも拘らず、少しだけ身を乗り出すエリシア。
そうはしなくても、すぐに海ははっきりと見えてくる。
林道を抜けた時――ゆっくりと走る馬車の前に広がったのは広大な海だった。
波は白く、水平線には青く広がり、砂浜の近くはエメラルドに。
とても綺麗な色合いを見せる海に、エリシアとナリアは目を見開いて驚いていた。
「これが海……。初めて見ましたけど、こんな広い水溜りがあるんですね……」
「ほっほっ、この星の多くは海が占めていると言ってもいい。実際には、水溜りではなく海という場所に大陸があるようなものじゃ」
「すごいすごい! こんなところがあるんだっ!」
ナリアがモーゼフの肩上でぴょん、ぴょんと跳ねる。
その衝撃でモーゼフの頭はゴロリと床に転がった。
「喜んでもらえて何よりじゃ」
「モ、モーゼフ様……!? い、今戻しますからっ」
「ほっほっ、心配せんでも見えておる」
モーゼフは自身の頭部を拾い上げると再び元に戻る。
老人の姿になっていても、頭部が落ちると骸骨へと戻る。
その姿は知らない人間から見ればかなり衝撃的な光景だが、エリシアとナリアはもう慣れたものだ。
それよりも、眼前に広がる海の方に夢中だった。
砂浜の方まで馬車を走らせて、モーゼフ達はそこで止まった。
広々とした砂浜には誰もおらず、そこにいるのはモーゼフ達だけだ。
「うみーっ!」
「あ、ナリア! 走ると危ないから!」
「海辺の砂は柔らかいからの。エリシアも走って見たらどうじゃ」
「わ、私は大丈夫ですよ」
「砂浜に降り立つのは久しぶりだな」
馬車から出てきたヴォルボラがそんな冷静なことを言いながら、砂浜に下りると同時にぼふんっ、とその場に倒れ伏した。
「ヴォルボラ様!? だ、大丈夫ですか?」
「砂浜で寝ると気持ちいいんだ。エリシアもどうだ?」
「え、えっと……」
「ほっほっ、海辺で恥ずかしがるようなこともないじゃろう。今からここで遊ぶわけだしの」
「え、遊ぶんですか?」
「海に来たのはお前さんたちとの約束を果たすためじゃ。楽しんでもらえないとわしも困ってしまうのぅ……」
「そ、そういうことなら――えいっ」
エリシアもヴォルボラのように砂浜で横になる。
まだ少し恥ずかしそうにしているが、それでも砂の柔らかさに驚いているようだった。
「本当ですね……森の土より断然柔らかいです」
「ほっほっ、削られて小さくなった土砂がこうして海辺には集まっておる。陸地にある土に比べて小さくサラサラとしているのはそのためじゃな」
「そうなんですね――あれ、ウィンガルさんは?」
「あいつは馬車の中にいる」
「どうしたんでしょう?」
「ほっほっ、誰にでも苦手なものはあるということじゃよ。レグナグルは――ナリアが持っていったようじゃの」
「……?」
エリシアが少し不思議そうな表情で馬車の方を見る。
ウィンガルはそのまま出てくる気配はなかった。
「ほっほっ、さて……それでは海を楽しむとしようかのぅ」
モーゼフのその宣言と共に、海での遊びが始まるのだった。