1.プロローグ
レザル大陸の北方、山間の地域があった。
辺境と呼ばれるそこは、山の入り口付近までならまだ人はいるが、奥地となるともう誰も住まない、鬱蒼とした森があるだけだ。
そんな森のなかに、一人の老人がいた。
老人の名はモーゼフ。
かつて《大賢者》と呼ばれ、強大な魔物から国を救ったこともある英雄とも呼ばれていた。
そんなモーゼフがこの地にやってきたのは、ほんの数ヵ月前のことだ。
以前から感じ取っていた、寿命という限界。
モーゼフは一人の人間としての生を終えようとした。
「ここを終わりの景色としようかの」
森を抜け、山を登った先の崖にモーゼフの家はある。
普段はもう好きなことをして生活していた。
魚釣りに行ったり、おいしそうな食材を探したり。
かわりばえはしないが満足感はある。
かつての賢者と呼ばれたモーゼフの生活とは一変し、隠居した一人の老人となっていた。
けれど、だんだんとその活動範囲は狭まっていく。
「もうそろそろ限界かのぅ」
そんなことを考え始めた頃、森のなかを散歩していたときのことだ。
ここは山間の中だが、それほど凶暴な魔物は現れない。
もちろん、老いたとはいえモーゼフが苦戦するような魔物は存在しなかった。
「はっ、はっ!」
息を切らした少女の声が耳に届く。
こんな山間に人が住んでいたのか、数ヵ月暮らしていて初めて知ったことであった。
その少女は魔物に追われていた。
森の中ではよく見かける狼種の魔物だ。
「あ……」
少女が転ぶ。
その背後から狼の魔物が迫る。
少女はなにかを抱き締めるようにして目を瞑った。
狼の魔物が襲ってくることはなかった。
「……?」
「大丈夫かの?」
少女の目の前にモーゼフが立っていた。
狼の魔物は氷の柱のようなものに貫かれ、息絶えていた。
モーゼフは少女の姿を見て驚く。
透き通るように美しい白い肌、輝かしい銀髪。
まだ幼さは残るが、将来はそれは美しい女性になるだろうと連想させる。
そんな少女の耳の先は、特徴的に尖っていた。
「お前さん、エルフか」
「そ、そうです。あの、助けてくれてありがとうございます」
「なぁに、気にせんでよい。こんな山間で出会ったのも何かの縁じゃからの」
少女の名はエリシア。
抱えていたのはここから少し離れた崖のところにある薬草だった。
「こんなところまでそれを一人で取りに?」
「は、はい。必要なものだったので……あの、モーゼフ様はここで暮らしているんですか?」
「そうじゃの。ここはいいところじゃが、時折ああいう魔物が出る。向こうのほうにはいかんほうがいいの」
「はい。私も、この近くに暮らしていて……」
何かお礼がしたいというエリシアだったが、モーゼフはそれを断った。
エルフは非常に珍しい種族だ。
だから守ったというわけではないが、彼らには彼らの生活がある。
そこに踏み入るようなことはしない。
詮索をすることもなく、モーゼフはエリシアと別れることにした。
去り際に、魔物よけの加護を与えたアクセサリーを渡しておく。
もし薬草が必要になったのなら今度は危険がないように取れるように、と。
「また機会があれば出会うこともあろう」
「はい、そのときには、必ずお礼をさせてください」
「ほほ、楽しみにしておる」
それが、モーゼフが生前の最後の出会いであった。
この数日後、外の景色を眺めながら、モーゼフは静かに息を引き取る。
大賢者の最期は、誰にも看取られることのないものであった。
思い返せば、ドラゴンとの戦いや魔導師との決闘など、若い頃から色々なことがあった。
もう十分、人としてやるべきことはやったと思う。
「んん……?」
だが、あるとき再びモーゼフは意識を取り戻した。
まるで時間が飛んだかのような感覚で、季節がいくつも過ぎ去っているようだった。
まだ夢の中で、死ぬ直前に幻の光景でも見ているのだろう。
モーゼフはそう思いながらも、自身の身体に目をやると、
「……骨になっとるの」
白骨化した自身の姿がそこにはあった。
大賢者モーゼフは図らずして、アンデッド族の最高峰であるリッチとしてまた生まれ変わったのである。
「死んだのに生まれ変わったとはこれいかに……」
その言葉に答えてくれるものは誰もいなかった。