第二話 僕の始まり
うぅん……なんか揺れてる。なんだか僕を呼ぶ声もする。誰だ……? 今はまだ起きたくないんだ。すっごく眠くて、ヒリヒリ痛くて……痛くて? そうだ!
「ヒロト!」
「うわぁっ!」
急に飛び起きたせいか、僕を揺り動かしていた誰かが尻もちをついた。少し濡れた猫じゃらしの中に見覚えのある黒い短髪。
「ユ……イ?」
「ミー君! ここで何してんの」
少し怒鳴り口調のユイ。
「あぁ、うん。色々とあったんだ。てか、なんでユイこそこんな所に来てるのさ!」
「色々って何よ! はっきりしないんだから……」
まったく僕の質問を聞いてくれない。
ユイは両手を地面につき、徐々に猫のようにこちらに近づいてきた。
「僕の質問にも答え……ちょ! 近い、近い!」
徐々に徐々に近づいてくる。ついに彼女は僕の目と鼻の先まで近づいてきた。
彼女の息が鼻にあたってくすぐったい。なんだ? なんでこんなに近づくの……
ガバッ!
「う、のぉわぁ!」
鼻どうしがくっつきそうなぐらいまで近づくと、いきなり彼女がとびかかってきた。そのまま抱き着かれながら押し倒される。
「ちょちょちょ! ユイ!?」
「よかった。ミー君になんにもなくて……本当に」
耳元で鼻をすすりながら彼女はそう呟く。なんだかとても心配してくれていたようだ。
そのまま数分経った。落ち着いたのか鼻をすする音は全く聞こえない。その代わりに草を握る音が聞こえる。
すると、ゆっくりとユイが僕に覆いかぶさってきた。
なんだかいつもと雰囲気が違う。目がちょっとやばい感じだ。
「ユイ……?」
なんだか……すごい貞操の危機感が……
恐る恐る僕が呼びかけると少しの間ユイの動きが止まる。
数秒後、正気に戻ったのか、急に目がいつも通りの明るいものに戻り頬がリンゴのように赤くなった。
「あ、あわわわ」
両手で口を覆うユイ。相当恥ずかしいのか、耳まで真っ赤だ。
「ごめん……ちょっと重いから、どい……」
僕がそう言おうとすると、ユイは兎のような跳躍で後ろに下がった。きれいに内股で座っている。
「なぁ、ユイ。大丈夫?」
「あ、うん……大丈夫だよ。なんかごめんね」
ユイはちょっとしょぼくれているようだ。ユイがあんなになるなんてなぁ。ずっと昔から一緒にいたけど、あんなの初めてだ。心臓が今でもバクバクしている。
「いいんだ、いいんだよ別に。それより学校に戻ろうか。もしかしたらヒロトが戻ってるかもしれない」
そうだ、僕はヒロトを探しに来たんだ。こんなことをしている場合じゃない!
もしもだけど……もしさっきのあいつがヒロトだとしたら……いったいあいつは何者なんだ?
僕はその場で立ち、ユイの肩をポンと優しくたたきながら言った。
彼女は真っ赤に火照った顔でこちらを見上げ、こくんとうなずき立ち上がった。
―――
「なぁ、たぶん何回も聞いてるんだけどさ……ユイはなんでさっきあそこにいたの?」
丘から学校への帰り道、二人で足をそろえながら歩く。今は僕の家の近くの住宅街だ。コンクリートが周りを囲み、実に淡泊な場所である。
一度は止んだのであろう雨がまたパラパラと降り始めている。あいにく傘は学校に置いてきてしまっているので、僕らの足は少し早まった。
「外を眺めてたらグラウンドを全力疾走している君の姿があったの。なんだか切羽詰まってそうな感じだったから私も授業抜けてきたって感じかな」
そうか。そんなに焦ってた感じだったのか、僕は。確かに走ってる時の記憶があまりないような……無我夢中とはまさにこのことか。
でも、待てよ?なんで……
「なんで僕があの丘にいることが分かったの?」
そうだ。僕を見つけて抜け出したまではいいけど、ユイが僕に追いつけるのか? いくら足が早かったとしても出発までにラグがある。たぶん、僕の姿は追えないはずだ。
「あー、えっと……」
なんだか言いにくそうにもじもじしている。
「なんとなく……君がそこにいるんじゃないかなって」
頬をポリポリと掻きながら恥ずかしそうに言うユイ。
「ほら! 私たちって付き合い長いじゃん! だから、なんとなく行きそうなところ分かるっていうかさ……てか、いっつも君、学校抜け出すときあそこ行くでしょ? だからよ! そう、だから……」
照れ隠しなのか体を揺らしながらもじもじして言う。
まぁ、そうなのかもな。考えすぎか。彼女も僕と同じようなものを感じたのかもしれないと思ったけど……よかった。
僕だけじゃなくてユイまであの変なのに襲われてしまうのはダメだ。僕のときのようにあのヒーローが都合よく現れるとも限らないし……それに、ユイは僕が……
「ミー君? 大丈夫?」
「うぉっ! あぁ、うん。大丈夫」
急に目の前にユイの顔が現れびっくりした。たまーにだけど深く考え事をしてると前が見えなくなる。僕の悪い癖だ。
僕らはそのまま学校への道を歩き続けた。
「もうすぐだね」
「あぁ」
学校のすぐ近くの交差点に着いた。いつもヒロトとユイに合流するところだ。
ユイは両手を後ろで組みながら僕に話しかける。僕はそれを淡々とした返事で返す。
いつも通りであるならば、こんな「あぁ」などという適当な返事はしないのだが、今はちょっとムリだ。頭になにか違和感を感じる。違和感というか予兆といったものか?
さっきの変な耳鳴り。何かが僕を”誰か”に引き合わせるかのような不思議な感覚をまだ覚えている。
僕らは黙々と先へ進む。ついに校門が見えてきた。
「ついたね」
「そうだな。ヒロトは帰ってきてるのかな?」
その時だった。
ギィン!という堅く歪な音が頭に響く。さっきのとは違う、全く。引き合わせるのではなく、拒んでいるといったような……
「がっ!」
頭が……すごく痛い! まるで頭の内側から石で殴られてるような……頭が割れそうだ!
「ちょ、ちょっと!? ミー君! どうしたのいきなり!」
痛みに耐えきれず頭を押さえながら地面に片膝をつく僕に驚いたのか、ユイは大声を上げた。
しかし、今の僕には彼女の声は耳に届かない。なぜなら……今、目の前にある光景に目が行ってしょうがないのだ。
頭痛と共に現れたのは前よりも深い霧。そして霧が晴れたその先には見たことのない世界。
ナイフの世界と何かが混在して滅茶苦茶な世界だった。
曇天のように灰色だった空は毒々しい紫で染まっており、太陽は真っ黒。形だけわかる状態だ。
あちらこちらに何かの漫画、小説。それに砂嵐が流れるブラウン管のテレビが生えている。
それに対抗するかのように地面に突き立てられているナイフ群。
気持ちが悪い。僕の中に不純物が入り込んでくる。僕を乗っ取ろうとしてくる。
「……くるな」
やめろ。
「……ってくるな」
やめろ!
「入ってくるなぁぁ!」
僕の絶叫が支離滅裂な世界に響き渡る。侵食のような感覚と頭痛は消え、頭は伽藍洞のように空っぽですっきりしている。
一度、瞬きをしてみる。ゆっくり、ゆっくりと。自然に、眠るように……
よし。
瞼を開けよう。今度もゆっくりと。徐々に……徐々にだ。
薄っすらと光が見える。灰色の、淡泊であるが美しい煌めき。殺意を帯びた輝き。
あぁ……心地がいい。
「きゃぁぁぁぁ!」
突然、隣からユイの叫び声がした。いきなりの叫び声で、急に現実に呼び戻されたようだ。
彼女のいる方向を見ると、ユイは校舎の方向を指さしながら震えていた。
その指の先には怪物がいた。前回の蜘蛛みたいなやつではない。
化け物みたいな真っ赤の唇の描かれた真っ白な本に、細い手と足が生えているだけのやつだ。手と足は肥大化しており、まるでどこかのゲームにでもいそうな体格である。
気色は悪いが強くはなさそうだ。
「hahahahahaha!」
怪物はその口を大きく開けて高笑いする。黄ばみ、汚れた歯が不気味さをより一層引き立てる。
そして両手を大きく上に上げ、
「you!」
その手でユイを指さした。すると怪物は自分自身を大きく広げ五枚ほどページをちぎった。
「wanko!」
その声と同時に奴の手に持っている紙がポンッっという軽い爆発音とともに子犬に変わった。
チワワや柴犬。トイプードルにフレンチブルドッグ。それにパグ。
手品かな?
ユイは犬たちに目を奪われながらも警戒している。もちろん僕もだ。奴は馬鹿みたいな行動ばかりしているが、危険なやつかもしれない。
「hahahahahahaha!」
もう一度奴は高笑いし、次に大きく手を二回叩いた。すると子犬たちは可愛らしくトコトコとユイの元まで走っていく。
ユイの元までたどり着いた子犬たちは彼女の真っ黒なローファーを一心不乱に舐め始めた。
奴はずっと笑っている。まるでピエロのように。
ユイは子犬たちの様子を見て安心したのか、中腰になりそっと子犬の頭を撫でようとする。
「gaburintyo!」
高笑いが止まったと思った瞬間、その声が発せられた瞬間、僕の体は無意識に動いた。
何が起こるのか予想なんてしていなかった。今、僕の手に何が握られてるのかも分からなかった。
「……え?」
ユイの拍子が抜けたような声。彼女の目に映っていたのは血をまき散らしながら空中に飛ぶ五匹の子犬の上半身であった。
「ユイ。ちょっとだけ逃げてて。今日はもう学校はいいよね」
後ろを振り向きながら彼女に言う。ユイは何も言えず、ただゆっくりと頷き元来た道へ走っていった。
「本の化け物さん、いったいこれはどういうことかな?」
怪物はしけ顔のまま突っ立ている。
「この子犬さんたちのお口はとても大きいね。なんで?」
怪物の口が徐々に揺れだす。
「ガブリンチョか。馬鹿にしてくれるじゃないの」
怪物の拳がきつく握られ、力んでいるのか体が少し震えている。
「さっきも僕に嫌がらせしてたよね? あれ、君でしょ?」
怪物の大きな口が開かれ、今にも何か叫びだしそうだ。
「僕がユイを守るんだから……させないよ」
「Aaaaaaaaaa!」
怪人は叫びながらページをどんどんちぎっていく。
発狂。まさにこの言葉が当てはまる様子であった。
「さぁ、オシオキタイムだ」
―――
辺りは灰色。殺意が支配する歪みの世界。少年の手には真紅のナイフ。
辺りは紅色。愛が支配する狂気の世界。少年の顔には決意の笑みが。