第一話 ヒーロー物語 1-5
「田中 ミナト君。このページの二行目から読んで」
「………………」
三限目、国語の授業。担当は糀 円子先生。生徒からは陰で広辞苑と呼ばれている。
若く眼鏡の似合う美人であるが、その反面、とてつもなく厳しいと評判で嫌いな生徒も多いとか。ごく一部の生徒にはとても人気がある。
ミナトからの反応が返ってこないと分かるやいなや、彼女はゆっくりと彼の席に近づく。
ミナトの席は廊下側から二つ目、前から四つ目と、少し後方で周りに囲まれているため、非常に恵まれた席である。
しかし、居眠り常習犯である彼は常に警戒されているため、せっかくの座席でも無駄になってしまうのだ。
「……おい、ミナト! 先生来てるよ! 起きろって」
ミナトの真後ろの席にはヒロトが座っている。背中をつつきながら小声で呼びかけるも全く返事がない。
「ミナト君?」
ミナトの席に到着した先生は、分かってはいるがあえて分からないふりをして寝ているか寝ていないかの確認をした。
「おーい、起きてるかーい」
「……………………」
もう一度呼びかけるも返事はない。
「ユイちゃん、横のバケツを二つ取ってくれない?」
一番窓際の席に座っているユイは肘をつきながら顔に手のひらを当て、またか、と言ったように顔を振った。
隣にあるアルミ製の古びたバケツを両手に持ち先生の元まで持って行く。
「はい、先生。いつものですね」
「そうね、いつものね」
呆れ顔のユイに対して、先生もまた呆れた顔をした。
「ありがとうね、ユイちゃん。席に戻っていいわよ」
「はい、分かりました」
ユイはゆっくりと自分の席へ戻る。
その間、最後の確認としてもう一度ミナトへ呼びかけた。
「たなか みなとくーん。おーい」
「…………………………ぐぅ」
ユイがちょうど席に着いた瞬間、机を叩く大きな音がした。
「!?!?」
「おはよう。」
突然の衝撃音に驚き、顔を即座に上げるミナト。
目の前には、彼の机に両手を張ったように乗せ、恐怖の笑顔を浮かべている先生の姿があった。
「お、おはよう……ございます。今日は良い天気……ですね」
「残念。今は曇りよ」
ビクビクとしながら挨拶を返すミナト。それを馬鹿にするかのごとくあしらう先生。
先生は机から手を下ろすと、下に置いていたバケツを持ち上げミナトに見せた。
「はい、これとこれ。そして、……ん」
笑顔のままミナトに二つのバケツを渡し、廊下に向かって指を指す。
その意図をすぐに察したミナトは満面の笑みを浮かべて大きく二回うなずいた。
「はーい、じゃあ授業再開するよー」
水を汲んだバケツを持ちながら廊下に立つミナトを確認すると、手を叩きながら振り向き先ほどとは違った笑みを浮かべ、そう宣言する先生。
廊下のミナトはそれとは真逆の表情を浮かべている。
十五分ほど経ったであろうか、いくら慣れているとは言え、ミナトも腕の限界が来ていた。
「やべぇ……乳酸が溜まって……腕が痛ぇ」
苦悶の表情を浮かべるミナト。
一度置いてもばれへんやろ……
そう思った彼は、床に一瞬だけバケツを置こうとする。しかし、ちょうどのタイミングで先生の説明の声が大きくなる。まるで、見ているぞ、とでも言いたげなように。
その声に威圧されたか、ミナトは置こうとしていたバケツをゆぅっくりと持ち上げた。
次の瞬間だった。
教室内から先ほどよりも机を大きく叩く音と共に、椅子をずらす音がした。
「おっ? 犠牲者二号かな?」
ミナトは思わずつぶやく。しかし違った。
「どこ行くの!」
先生の驚いた声が響く。
「すいません! ちょっとトイレ行ってきます!」
次にしたのはヒロトの声。とても焦っている様子だ。
ドアが擦れるような音がしたと思うと、跳ね返るほどの勢いで開かれる。そこから必死の形相で教室から駆け出すヒロトの姿があった。
ミナトは愕然とした。いつも落ち着いているはずのヒロトがなぜ? 漏らしたのか?
教室の中も突然のヒロトの奇行にざわついている。
まぁ……そのうち戻ってくるだろ。トイレから帰ってくるとき泣き目になってるヒロトの姿がよく見える。昔からアイツ、泣き虫だからなぁ。
ミナトはそう考え、バケツを持ちながらにやけた。
それから十分そこら経ったが、ヒロトが帰ってくる気配すら無い。
「ミナト君。ちょっとトイレ行ってきてヒロト君の様子見てきてくれない?」
先生が教室から顔をひょいと出し、ヒロトを心配してモゾモゾしているミナトにそう言った。
「はい、分かりました!」
ヒロトを探しに行けるという思いと、やっとバケツを下ろせるという思いが重なり合って、嬉々とした表情で答えるミナト。
先生に対して返事をした後、ミナトはトイレのある方向へ駆けだした。
トイレに到着したミナトはさっそくヒロトを探し出した。
曇りであるためか、日当たりの良い場所にあるトイレでも中は通常の何倍も暗い。電気はあるのだが、スイッチは押されていなかった。
「おーい、ヒロトー。大丈夫かー?」
ミナトは入り口にある電気のスイッチを押し、中へ入りながら言う。しかし、返事はない。
「いんのか~? ヒロトー」
もう一度確かめてみるが、返事はなくただミナトの声が反響するのみであった。
「たく、どこいんだよ。トイレじゃないのかよ。まぁ、一応探せるだけ探すか」
ついつい独り言が漏れるミナト。
ヒロトを呼びながら扉を全て開ける。そして冗談半分で便器なども調べてみるがやはりどこにもいない。
「やっぱいない。教室帰るか。先生にヒロトいませんでした~、って報告に」
軽く振る舞うような様子で独り言を言うミナトだが、内心はヒロトのことをとても心配していた。
どこにいるんだ、ヒロトの野郎。教室を飛び出すなんてヒロトらしくない。なんだか慌ただしそうな様子だったし……いったい何が……
そう考えながらゆっくりとトイレを後にし、電気を消そうとする。
そのとき、ミナトの頭に何かが響いた。
耳鳴りのような音が頭の中に響く。何かの声にも聞こえるその音は、ミナトの何かを刺激した。
「ヒロト……?」
そう呟いたとき、ミナトは教室とは反対にある階段の方へ駆けだした。訳も分からずに。
実際、ミナトはそのとき何も考えられなかった。頭にあるのはその音を追うことだけ。
何かとミナトを引きつけ合わせるかのようなその音は、ミナトを煽るようにその音を増す。
それと同調するかのごとく、ミナトの走るスピードは増していった。
階段を二、三段飛ばしながら降り、三階から二階、二階から一階へと、すさまじい速度で降りていく。
階段を降り終わると、回るかのような勢いで右に曲がり校舎の出口を目指す。
「おい! そこの!」
校舎を出るためには一階にある職員室の前を必ず通らなければいけないのだが、ミナトがそこを通り過ぎた瞬間、授業のために待機していた男教師が走り去る彼を見て注意した。
しかし、その声はミナトには届かず電気だけついている静まった廊下にこだまするだけであった。
「ミーくん……?」
教室を出て行った二人のことを考えながらボーッとグラウンドを見ているユイ。
目に映ったのはグラウンドを突き抜け校門から出ようとしているミナトの姿であった。
「はい、じゃあここ。ユイちゃん、ここ読ん……」
「すいません!」
「はい!」
黒板に目を向けずに外を眺めているユイの姿を見て、先生は珍しいなと思いつつユイを指名しようとした。
しかし、先生は突然のユイの大声に驚き、逆に返事をしてしまった。
「なな、なんでしょうか?」
焦りを浮かべた笑顔でユイに聞き返す。
「トイレ……私もトイレ行ってきて良いですか?」
自らの行動に気づきはっとして、口を覆うユイ。その後、数秒間ほど考え、笑顔を浮かべながら言った。
「は、はい……行っても良いけど……」
「はい! すみません! 行ってきます!」
たじろぎながら答える先生とは真逆に、ユイは勢いよくお辞儀をし、ヒロトと同じように急いで教室を出て行く。
その様子は若干の焦りを感じているかのようにも見えた。
「まったくもう、なんで今日はこんなにトイレ行く人が多いのよ!」
手を腰に当て、呆れたようにため息をつく先生。その姿を見て、教室内は少し笑い声で包まれた。