第八十二話 素顔舞踏会
「さて、ルーカス。僕は思うんだ、皆この学校で日々学問を学ぶのは何の為かと。それは他でもない自分の為だろう? だが、将来なんてものは自分で自由に選択し、決定できるものではないだろう?決められるのであれば僕は大地を駆け回り、空を飛べる生き物になるよ」
唐突に始まったエルガの話を聞きながら、再びベッドに戻って来るのを待つ。
冗談なのか本気なのか彼が話す言葉は分かりにくい。
「ここに来た誰もが、合格した瞬間にこの世界のどこかにいる名も知らぬ誰かの夢を潰した。だがそれはここに限った話ではないし、それを引け目に思う必要も無いんだ。皆自分の為に生きていくのだからね! 正解さ! ……しかしだ」
ルーカスの隣に腰掛けたエルガからなのか、着ているローブからなのか分からないが、少し甘い花の香りがした。
そして、彼の目が笑っていないのは初めてだった。
「自分の為に生きていけない者は生きる資格は無いだろうか?」
目から首筋、そして足まで舐めるように目線が這って行くのを見ながら何も答えられない。
目の前にいるのはエルガではないような、そんな錯覚が起きていた。
知っている彼は人にこんな不躾な視線を送る様な人物ではないし、いつだって微笑みを絶やさぬ紳士だ。
のらりくらりと意見がぶつかりそうな議論は避けていたし、こんな風に自分の思考を誰かに話しているのも見た事はない。
「自由を望む、それは生きとし生ける物全てに共通している。だが、自由を奪われたとしたらどうなるか。答えは案外、すんなりと生きていけるものだ。最初は自由を取り戻そうとあがくだろう。しかし、戻らないと知ったら? 自分の力ではどうにもならないと知らしめられたら? 諦め、その環境に段々と馴染んでいくんだ」
「……エルガ、一体なんの話をしているのか……」
「まあまあ聞くがいいよ、そんなに怖い顔をしないで」
ルーカスの制止をかわし、エルガは言葉を紡いだ。
「しかし、最初から自由を知らない世界で生きた者が後から自由な世界を知ったらどうなるだろうか。想像出来るかい?」
答えを間違えると、何か恐ろしいことが待ち受けているような気がした。
そう思わせる何かが、今の彼にはあるのだ。
「……それも、適応するんじゃないかな。一概には言えないし……正直な所、想像もできないけど……」
にっこりと笑い、拍手をするエルガから目を離せないでいた。
彼の中に、何かが棲んでいる。
何故今まで気が付かなかったのか不思議に思う程、それは暗く重いものだ。
「そう! それも適応するだろう! では、更に問おう! それがもし、再び自由を奪われる事が決まっているとしたら?」
そしてようやく何を言っているのか、理解できた気がした。
可能性の話だが、彼は今、自分の事を話しているのではないだろうか。
彼は自分の家の事はほとんど話そうとはしなかった。
各自で昔の思い出を話していた時も、いつもの調子で笑っていた。
だが、もしかするとその時、彼の心の中は―
「エルガ……、エルガ……君が今話しているのは……」
「それはとても、悲しい事だと思わないかい? しかし、戻る事が条件で籠から出された動物は、実はそこへ戻らないとこの世界で生きていくのは難しいのかもしれない。それは、その動物の為でもあると思うんだ」
「……違う、僕はそうは思わない。そりゃあ、生きていくのは大変かもしれないよ? でも、それがなんだっていうんだ? 籠に入っていれば危険は無かっただろう、でも元から外にいる者達は生きていける世界なんだろう? なら、きっと問題無いさ」
ルーカスが気付いた事が伝わったようだ。
普段通りのエルガの顔付きに戻ると、微笑んだ。
その表情はとても美しく、同時にこのまま消えてしまうのではないかと思う程の危うい儚さがあった。
「君は優しい、故に心配だよ。そんなにスポンジみたいに、なんでも吸収しているとダメになってしまう。水と違って重油のような汚れは一度つくと落ちないから、気を付けた方がいい。でも、僕はたまに思うんだ。カイのようにあんなにも自由な人に出会えた僕は本当にラッキーだって」
まるで目の前で彼女を見ているかのようにとても優しい声で言うエルガに、ルーカスは押し黙ったままその場から動けずにいた。
その後、よく知っている彼のテンションで最近は少し小難しい事を考えすぎてしまっただけなんだと笑い、たまには知識人同士こうして話をしようと言われ、ルーカスは部屋を後にした。
ドアが閉まり切る前に、口元で人差し指を揺らして笑う彼が見え、頷くと安心したようにウィンクを返されたがルーカスの気持ちはざわめいたまましばらく静まりそうになかった。