第四十四話 笑顔は武器って言ってたわ
食堂を抜けて早足で廊下を進む甲斐に手を引かれ、次から次へと溢れては零れていく涙を手で拭いながら歩く滲む視界には自分よりも背の低く、小さな背中だけが映っている。
呼吸が整わず、息を喉が勝手に吸い上げ、何度も嗚咽を漏らしてしまう。
送れて夕食に向かう男子生徒が何事かと見つめる視線を感じたが、甲斐に一睨みされるとすぐに目線を外した。
夕陽は沈み切り、白んだ空にはうっすらと星が空に穴を空けたように無数に現れ始めていた。
人気の無い場所へと向かっているのか、ふと立ち止まった甲斐はレンガ調のタイルの敷かれた道の横にある花のアーチに気付いて中へ進む。
そこは昼食時に人気の庭園で、日除けにもなる葉は昼間に受け、吸収した光を優しく周囲に放っていた。
「なんで泣くの?」
手を離して、こちらを見上げる甲斐は先程見たあの背中よりも小さく見えた。
そして言葉もそうだが、彼女はいつだって直球だった。
聞かれても困るのは、自分でもこの涙の理由が分からないのだ。
「ひっく、どうして、かしら……。わたしも……わか……らないわ」
ふふ、と鼻をすすりながら答えると幼い顔つきをした眉の間に皺が入った。
きっと自分は今、酷い顔をしているだろうと甲斐の瞳に映る小さな自分を見ていた。
人前で泣くなど、幼い時以来だと記憶を辿っていく。
「どうしてクリスは笑うの? 無理してない?」
クリスは思い出していた。
いつだって明るさを心掛けて来たのは今に始まったことじゃない、昔からだ。
人当たりも良く、多くの人に好かれていると自分でも思う。
誰だって難しい顔をしている子よりも笑っている子の方が好感を持つだろう、多少はそんな考えもあったが決していやらしい気持ちではなく、純粋な思いでもあった。
いつしか、この明るさは便利な物になっていた。
それに気づいたのはティナ達と仲良くなってからだった。
常に明るい自分には同級生で目立つ部類のティナ達が一緒にいるようになり、感情の起伏の激しい彼女達といる日々で何をするにも場の空気を読む事が非常に上手くなっていき、笑顔も今まで以上に増やしていった。
その代わりに、周りに意見を言う事や相手を否定するのも、自分の気持ちを伝える事が異常に苦手になっていた。
だから嫌な事があっても、笑っていた。
明るい言葉も、作り上げた皆の知るクリスというキャラクターも便利だった。
そうしておけば皆安心したし、曇らない笑顔は何よりも絶対の強さだった。
この笑顔があるからこそ、今まで上手くやってこれたのだと自信があった。
だが、これが不安定な強さに変わり、嘘のように自分自身への疑問を作ってしまうきっかけが二年生に上がる前に起きてしまった。
何度自分の意見を飲み込んだだろう?
何度自分の感情を殺したんだろう?
あの時もしも自分がこうしていたら?
この自分はいつまで続けるべきなのだろう?
今まで必死に自分が守り抜いて来たものは、自分ではなかった。
結局、自分はいつの間にか周囲への溝を埋めていたつもりが、毎日深く深く掘り進めていただけだと気付いてしまったのだ。
そして、今朝の出来事が起きた。
ティナ達がフルラをからかっているのは前から知っていた。
だが、ティナ達が勝手にやっている事で、自分はそれをいさめたりといった立場で無関係だと本気でそう思っていたのだ。
話に上がったこともあったし、その度場の空気を壊さないようにとただ笑っていた。
食堂でティナ達が小声で話し始めた時もまずいとは思わなかった。
聞こえてしまっているだろうか、注意しておくねとでも言って謝らないと、そんな事を考えていた。
カイに目を見て言われたあの言葉は、きっかけとなった事件の相手が言った言葉と似ていた。
まざまざと、自分はあれから変わっていないどころか最低な人間に成り下がってしまっただけだと実感させられたのだ。