第三百七十三話 たくさん泣いて
視界が涙で滲み、目を擦った時に化粧をしていたことを思い出した。
目の中に入り込んだ異物感のせいで片目が開かなくなった。
ビスタニアの後ろに付いて歩いて行くとフルラが心配そうに待っていた。
痴話喧嘩かと集まって来た人から守るようにウィンダムとビスタニアが両脇を歩き、フルラが泣き止まぬ甲斐の背中を擦る。
いつもは常時開放している食堂のドアは防音の為か閉められていた。
ビスタニアとウィンダムによって開けられる。
一歩外に出ると冷たい風が濡れた頬を一気に冷やした。
「さて、通報するか。校長に直々に言った方がいいな。言いにくいならば俺達は席を外そう、そうだそれがいい」
「事情聴取とか一切無しなんだね!? ほら、彼女も首を横に振ってるよ」
いきり立っているビスタニアにウィンダムは驚いてみせる。
「か、カイちゃん……落ち着いてからでいいよ……。せっかくのお化粧も崩れちゃってる……クリスちゃんを呼んで来るね。……ウィンダム君も行くの! 一緒に!」
「ええ?今後の展開がちょっと気になるのに! ……はいはい、護衛しますよお姫様」
空気を呼んだフルラにウィンダムは連行されて行った。
二人きりにされたビスタニアは声を殺す事なく、大声で泣き続ける甲斐を雪の無いベンチに座らせた。
流石にドレス姿で肩を出している甲斐は寒いだろうと、ジャケットを脱いで上から掛けてやる。
制服のネクタイだと分かっては面倒な事になるのでそっと外してポケットへ突っ込んだ。
「……あああぁぁ……。……ふぅ、よし。も、だいじょぶだわ」
「待て待て待て待て! 何も良くない! ……何があった?」
立ち上がった甲斐の両肩を押さえて再び座らせると、珍しく黙り込んでしまった。
まだ心の整理がついていないのだろうと急かさずに、白く浮かんでは消える自分の吐息を見ていた。
「シェアトは、悪くないんだ。あたしが勝手に、色々切羽詰まっただけだから」
話し出した甲斐は目が赤く腫れ、泣いたせいでしゃくりあげるような呼吸をしていた。
「そうか、でも切羽詰まるようにしたのはあいつだろう。どうせ迫ってきたんだろ?」
「そうだけど……それはあたしがはっきりしないからだと思う。いつだって……いつだってシェアトはあたしの事考えてくれてるのに」
その言葉に、ビスタニアは複雑な気持ちになったが極力出さないように気を引き締める。
「……なんていうか、難しいね。なんで今まで通りじゃダメなんだろって思ったけど……、この前シェアトと空気悪くなった時あったでしょ。あの時、双子と仲良くしてるシェアトに……よく分かんない気持ちでいっぱいになって……」
その気持ちを何と呼ぶのか、甲斐は知らないのだろうか。
今まで、味わった事もないのだろうか。
「あたしがシェアトと会った最初から、あの双子も傍にいたらって考えたんだ。……そしたら、絶対あたしは何も思わなかったと思うんだ。……てことは、あたしがもう今まで通りじゃなくなってるんだもんね」
自嘲気味に笑う甲斐が言う意味を理解したとき、ビスタニアは困ったように笑った。
「それを……俺はどんな顔して聞いたらいいんだ? ……冗談だ。俺はお前が決めた事に何も言わない。どう転んだって、お前がそう決めたならそれで良いと思ってる。あいつは、馬鹿だし阿呆だがお前の事に関しては一生懸命だからな」
「……好きって、難しいんだね。あたし、みんなが好きだよ。嫌なとこなんて浮かばないもん。でも、このままじゃいけなくて……。色々考えてたらどうしようもなくなっちゃって。あの時、あたしの返事一つで明日からのシェアトの態度が変わる気がして……怖くなったんだ」
知るには短く、分かるには十分な期間を過ごした。
甲斐の知るシェアトはいつだって生意気で、軽口ばかりだった。
笑う時に顔を傾けて笑う癖も、犬歯が見え隠れするのも、ふいに見せる寂しげな表情も。
その全てを自分の一言で続けたり、二度と見る事が出来なくなるというプレッシャーに耐えきれなかった。
「いいんじゃないか、別に。俺とポーターのようにどうしようもない程、溝が深まってもまたこうして一緒に笑い合えるんだ。もしお前があいつを振ったとしても、暫くは落ち込むだろうが露骨に態度を変えるとは思えんしな」
もし仮に、シェアトの想いを甲斐が受け取らなかったとしても自分になびいてくれるなど思っていない。
結局は憶測の話になったが、自身に置き換えて考えてみてもやはりすぐに諦めるなんて出来ないだろう。
傷跡は完全には治らず、時折痛みを感じるだろう。
それでも、きっと。
「好きって、要は誰が一番大切かって事なのかな……。その想いが届かなかったら、その気持ちはどこに行くの?」
「……誰の隣にずっといたいか、でもあるな。届かなかったからといってすぐさま消えてなくなる物じゃないだろうな。残り続けるだろうが、届くか届かないかが重要じゃないだろ」
「そうなんだ……」
それでも、届けばいいと思うのだろう。
だから、伝えるのだろう。
「……寒……な、ナバロその格好……! あれ、あたしこれナチュラルに使ってたねごめん!」
「ああ、いや。さて……そろそろ出て来てもいいぞ。 こいつの顔をなんとかしてやれ、メタル歌手のようなメイクになっているせいで怖くて見れん」
泣き声に乗じてそっと後ろに回り込み、ベンチの陰に座って話を聞いていたクリスとフルラ、そして顎にもらったクリスの一撃で意識を失ったシェアトをウィンダムとエルガが支えていたが、ようやく呼ばれて立ち上がった。
ルーカスはクロスと一緒に雪兎を作っては動かしている。
ようやく無罪だと知らしめる事が出来たシェアト本人は腑に落ちない顔をしているクリスに気付けをしてもらったが、まだ視界は歪むようだ。
「……プライバシーとか皆無だ!」
「それだけ心配したのよ……怖いわ、その顔で叫ばないで……」
プロムは日付が変わるまで続く。
メイクを直してもらった甲斐は目の腫れをルーカスに治してもらい、再び騒がしい会場内へと戻って行った。