第三百六十三話 甲斐のアルバイト
「これはこっち!? はいよ、パスパス! ほいっと……あらら」
まだ太陽も昇っていない時間から、甲斐は制服姿で髪をまとめ、エプロンとマスクを着用して精を出していた。
パスにしては勢いをつけすぎてしまい、食材の詰まったバットを受け渡す際、お手伝い天使が何人か巻き添えを食らってクラッシュした。
ランフランクにアルバイトをしたいと申し出た所、怪訝な顔をされたがプロムの事を伝えると愉快そうに笑っていた。
こちらでその代金を用意しようと嬉しい申し出をされ、一瞬揺らいだせいで、首が縦に動こうとしたが抗ったのでネギをへし折った時の音と共に激痛が走った。
首の痛みに耐えながら丁重に断り、何か仕事は無いかと改めて聞いたところ、お手伝い天使と共に仕事をしたらいいと提案された。
かなり体力がいるのと、時間的にもハードだと忠告をされたが二つ返事で引き受けた。
お手伝い天使用の空間へ続く鍵を手渡され、使い方はどの場所でも鍵を刺して回せばいいと告げられた。
校長室の鍵と使い方は同じだという。
報酬としては働く時間に関わらず、日当で日本円で一日一万円ということだった。
それが正しい相場なのか、貰い過ぎてはいないかと心配をしたが、労働量に比べればなんてことはないと一刀両断された。
その日の夕方から夕飯の支度へと飛び込んでみたが、そこは戦場だった。
制服姿で髪の毛もそのままの状態だった甲斐は、真顔の天使達数名に宙へと浮かされ、靴もどこかへ消された。
このまま天へ召されるのかと思ったが、次から次に消毒なのか、液体をぶっかけられては次の瞬間には乾かされ、妙に顔が突っ張るなと思えば髪の毛が一本も跳ねたり飛び出したりしない、綺麗なポニーテールにされていた。
これが俗に言う女の子の憧れである無敵の変身シーンなのかと思いきや、長めのビニール製のエプロンを被せられ、最後にパチンと耳にかけられたのはぴったりとしたマスクだった。
ようやく床に下ろされた甲斐が周りを見ると、信じられない速度で光の玉が飛び交っている。
よく見ると光の玉自体がどうやらお手伝い天使らしい。
それぞれが大きな箱を浮かせて運んだり、食材を瞬時に切り揃えたりと目まぐるしく働いている。
調理を魔法で行うなどやった事も無い上に、一センチ単位で揃えて切るような調整を早く行うのも自信が無かった。
そして更に困ったのは、お手伝い天使は人の言葉を話さない事だ。
物を移動させる事位はすぐに出来るのだが、何をどこに移動すればいいか分からない。
ジェスチャーで意思疎通を試みて、なんとかその日の夕飯を仕上げた頃には、皆同じに見えていた天使達にも見分けがつくようになり、誰がどの持ち場で食材をどうしたいのかといった順番も分かる様になった。
皆が食べている間に減った料理を魔方陣を使って流したり、飲み物の注文を取りに行く役目の者以外は空いた皿を下げたり、洗い物をしたりと仕事に徹していた。
彼らを見習って洗い物をしようとしたが、魔法が分からないので手作業で洗い始めると、そっとゴム手袋を出してくれたり、タオルや手に優しい洗剤を次々に用意してくれた。
その優しさに感動した甲斐が思わず天使を手に取って頬ずりをした拍子に衝撃が強すぎたのかその天使は気絶した後、どこからともなく差し込んできた光の中で消滅した。
そんなとても悲しい出来事もあったが、まかないとして用意してくれる料理はどれも絶品で不満は無かった。
むしろ学業に勤しんでいるよりも、こうして働いていた方が性に合っている気がした。
早寝早起きが習慣付いた為、友人達と顔を合わせるのは本当に極僅かな時間となったが、充実感に包まれていた。
あと二日頑張って初めての給料を受け取り、翌日にはドレスや靴を選びに外出しなければならない。
外出許可は下りたのだが、異世界人というレッテルがある上、何か問題が起きては大変だということでギアも同行する事になった。
忙しさが表情に出ているギアには申し訳ないが、久しぶりの外出も楽しみだ。
「ごめんね、大丈夫? あっ、また召された……」
一緒に買い物に行けないと言った時、クリスは酷く悲しんでいたし、とても食い下がられた。
上手くかわし続ける自信が無いので、早々に話を切り上げ、極力顔を合わせないように動いていたが怒っているだろうか。
そして、今頃はフルラと仲良く買い物を楽しんでいるだろうか。
ドレスの選び方や他に何が必要なのか、外出する前に詳しく聞いておかなければ。
夕食の支度を終え、久しぶりに食堂で食事をとろうと裏方から出ると外は暗かった。
「プロムが終わって、少ししたら卒業かあ……」
「そうだな、時が経つのは早い」
独り言に返事が来た。
「怖い怖い怖い! ナバロ今どこから出て来たの!?」
「ん? お前こそどこから来たんだ?」
「う、あ、やー……えーっと」
即座に言い訳が思いつかない甲斐の頭に手を伸ばし、髪留めを取るといつもの彼女に戻った。
涼しかった首元が髪の毛で覆われる。
「食事か? 俺も今からなんだ、一緒に行こう」
「えっ、ああ、そうだね……。ん?なんかナバロ……」
数種類の柔軟剤が混ざったような、そんな匂いがした。
いつもの彼の匂いではない。
「あんまり嗅がれると照れる、やめてくれないか……」
「……ああ、ごめん。良い匂いするね、シャンプーか何か変えた?」
「いや? ……俺は自分の汗の匂いしかしないがな。それにしてもお前は旨そうな匂いがするな」
言われて自分を嗅いでみても分からない。
調理場の匂いに慣れすぎて鼻が麻痺しているのだろう。
「夕食代わりにお前をもらおうか、なんて……な………っ!?」
やり過ぎた、と思った。
まさかあの甲斐が、こんな風に真っ赤になって困った顔をするなんて思わなかったのだ。
この反応は良いものなのだろうか。
言っておきながらつられて赤くなるようでは、このチャンスを活かせそうにないのだが。