第三百五十九話 クロスと防衛長
「失礼します……、クロス・セラフィムです」
声と表情だけは緊張しているように取り繕っているが、クロスの心は冷静だった。
「来たか、首席を取れなかったという訳だな。どんな顔をして入って来るか楽しみにしていたが……全てにおいて期待外れだな」
これが上司になる所だった、そう考えると身震いしそうになった。
歪んだ性格に思えるサクリダイスも、ビスタニアの父であり、妻もいるのだろう。
ここまでプライベートを想像が出来ない人間というのも珍しいものだ。
「そうですね、申し訳ございません。更に失望させてしまうご報告がございます。わたくし、クロス・セラフィムは目を掛けて頂きましたが非常に無能であり、また、凡愚でありました為、頂いた異世界人の監視役を全うする事が出来ませんでした」
立ったままで全く悪びれる様子も無いクロスにサクリダイスの唇が微かに震えた。
口を挟ませないように矢継ぎ早に続ける。
「詳しい状況をお伝えしますと、わたくしとしましてもまず、防衛長のお出しした条件を果たそうと勉学に勤しみました。その間、異世界人もエルガ・ミカイルと試験に向けての勉強に励んでいたようです。ああ、そうでした。その前に監視の虫を付けてみたんですが、四六時中下らない会話ばかりなので勉学との両立が難しくなりまして。なので、出来る限り食事は共に摂りました。いやあ、尻尾を掴むのは難しい。僕には荷が重かったのかもしれません。お望みの結果は得られませんでした」
申し訳なさそうに眉尻を下げて、愛嬌たっぷりに微笑んでみせた。
「……私の、見込み違いだったか。ならば何故、先に報告を上げに来なかった? ……兄の進路の邪魔をする為か?」
「いえ、それがですね。重ね重ね申し上げにくいのですが、この頭が出来が悪いのですっっかり、本当に綺麗に忘れてしまいまして。とにかく卒業をする事に必死だったのです」
いけしゃあしゃあとふざけた事を次々に言うクロスに対して、流石というべきかサクリダイスの顔色は変わらなかった。
ただ目を閉じて聞いている。
それが度胸試しをしているクロスを一気に不安にさせる。
「……話は分かった。セラフィム、誰に入れ知恵をされた?」
「……入れ知恵、ですか? すみません、わたくしには一体何の事だか……」
反応が遅れ、そして目が左上へ走ったのをサクリダイスは見落とさなかった。
「そうか、そうか。分からないか? ……お前には自分が変わったという自覚は無い、と? 私をみくびるとは良い度胸だ。無知とは恐ろしい。そして上手く切り抜けた気だろうが、お前の何倍年を重ねていると思っている? 性格も行動パターンも知らぬまま、仕事を任せると思ったか?」
風向きが変わったのを感じた。
大人しく、水面に波を立てないよう、そっと浮かんでおくべきだったのか。
「そういう浅はかな所も見込んで私はお前を選んだのだ。どうせ友情という焦がれた一時の感情に流されたのだろう。戻って来い、お前は人を裏切る事に罪悪感など抱かぬはずだ。誰よりも深く、重い……薄暗い感情を持ち合わせている。いつか必ず、また人を裏切るだろう。このまま、中途半端に自分を騙していれば傷を受け止めきれぬだろう」
何故、否定できないのだろう。
心当たりがあるからだろうか。
誰しもが持ち合わせている薄暗い部分を、サクリダイスはよく見抜く。
そこにつけ込まれたのは隙があったからだ。
今は、違う。
共にいてくれた先輩達を、いや。
友人達を裏切る事など死んでも出来ない。
「人を裏切る痛みこそ、何よりも恐ろしいです。そんな事をする位なら、死んだほうが……まし……です」
聞いたか?昔の自分よ。
これを綺麗事だと嘲るがいい。
今はそれでいいのだ。
心からこう言えた時、今までの長い時を悔いるだろう。
そしてそれは足場になる。
ぬかるんだ道なんかじゃない。
足枷などではない。
何も知らずに暗い道で刃物を振りかざし続けていた方が怖い。
どれだけ進んでも、息が切れても、出口が見えないのは同じ場所をぐるぐると回っているから。
明かりがあれば、そこに真っ直ぐ走れたのに。
たった、それだけの事だったのに。
「ならばその時は、死ぬがいい。もう、顔を合わせる事も無いだろう」
一方的に映像通信は切られた。
かかとを鳴らしながら部屋を出るとビスタニアの姿が無い。
先に戻ってしまったのだろうか。
早く誰かに会いたい。
悪夢のような時間から抜け出せたのだという確証が欲しい。
校長室から出ようとした時に、人の気配を感じた。
まさか校長が戻っていたのかと笑顔を作って振り返れば、ソファの上で何かが動いた。
「……大物だ……」
警戒して近付くと、ビスタニアが横になって眠っていた。
恐らく座ったまま眠り、ゆっくりと体を横にしていったのだろう。
それにしてもよく寝ている。
起こそうと声を掛けてもぴくりともしない。
足の辺りに腰を下ろしてどうしたものかと思案していると、ビスタニアの寝息のせいで瞼が落ちて来る。
「……これはこれは、パジャマパーティでも開催していたのか?」
帰って来たランフランクは、ソファで寝こけている二人を見て困惑の色を浮かべた。
特に来客の予定も無いので起こす事もせずに仕事に掛かる。
すると一時間後、先に目を覚ましたビスタニアは息を吸い込みながら叫ぶという高度な技術を見せつけ、クロスは髪の毛全てをむしり取りそうな勢いで頭を掻きむしっていた。