第三百五十五話 大好きだ、大好きなんだよ
普段通りの時間に起床した甲斐は、階下からの騒がしさを何事かと思ったが、思い出してみれば今朝が順位の発表なのだ。
確かに覚えていたのに、ベッドに入った途端にどうやら夢の中に置いて来てしまったようだ。
パジャマを脱ぎ捨ててシャツに袖を通し、慌てて靴下を片手で引き上げながらもう片方の手でスカートを取り出す。
もうシェアトは先に順位を確認しているかもしれない。
自己採点では微妙な結果だったが、一体どうなっているのだろう。
ただシェアトの事よりも、首位争いの結末の方が気になっていた。
ボタンのかけ間違いを直すのももどかしく、そのまま部屋を出て上からかけ直しながら階段を下りた。
「……いた! シェアトおはよ! どうだった!?」
「……見ろよ……。 俺、エルガと同じ順位だぜ……?」
「……なにいいいい!?」
素っ頓狂な声はどこから出たのか。
このシェアトという男は番狂わせの神様にでも愛されているのだろうか。
あのエルガと肩を並べ、首位で卒業するなどという奇跡が起きてしまった。
奇跡を起こす為にフェダイン全員の幸福が吸い取られていたとしてもおかしくない。
だが、甲斐の目はいつまで経ってもシェアトの名前どころかエルガの名前すら見つけられずにいた。
「……え? なんで嘘ついて来たの? エルガいないじゃ……ん……!? うおおおおナバロが大変だあああああああああ」
「いてえ! なんで喜びながら俺の腹殴るんだよ!? お前どこの民族なんだ! ああ、あの赤毛が一位なのはいいんだけどよ。いや俺としては良くねえが。見ろよ、ルーカスだって次席だぜ?」
これまた嬉しいニュースにはしゃぎだそうとするのをシェアトが甲斐の頭を押さえて制した。
「で、だ。俺らのエルガ様はなんと最下位なんだよ!」
「……は? だからそういう嘘はいいって……ホントだ……。え? 何? ていうか最下位って大丈夫?」
シェアトは驚かせようとしているのだろう、と思った。
自分が最下位だからってエルガまで巻き込むとは、と目線を下げ、そして悔しいがシェアトの期待通り思い切り驚いてしまう。
「ダメでも留年すんならエルガも一緒って事だ! ほら、お前は三十何番だかだぞ。良かったな。太陽組だと三位だ。気持ち悪ぃ、頭良い奴らとつるんでるからなんか脳波でも移されてんじゃねぇのか?」
「発言からバカが漏れ出してる、しまってしまって! それにしてもエルガ……どうしたんだろ……?」
「逆に今までが奇跡だったんじゃねぇか?これが本来のエルガの頭だったりしてな! 俺と大差ねぇじゃねぇか!」
がはは、と笑うシェアトのテンションに甲斐は合わせられなかった。
それほどまでに衝撃が強い。
「この世の人間がみんなシェアトみたいに気狂いポジティブだったらきっと滅亡するんだろうね。解答欄間違えたとかかもしれないし……気になるから早く食堂行こう」
「二つ名みてぇの付けんなや! ったく……」
急ぎ足の甲斐と、完全に不貞腐れているシェアトは速度に大きな差があった。
時折振り返る彼女に手を振って、外の寒さに震えながら食堂を目指す。
もうすぐ春になるがまだまだ緑は見えそうになかったし、薄暗い雲から雪ではなく雨が降るのが待ち遠しい。
もうここで、夏の知らせである雨を見ることはできないのだが。
結局ビスタニアが首席を取ってしまった。
晴れない空と同じように気持ちが曇り模様なのはそれだけでなく、エルガのせいでもあると思った。
何故首席を最後まで貫かなかったのだろう。
甲斐を好きな気持ちは皆分かっているはずだし、エルガと自分はお互いにフェダインで一番最初に仲良くなった、少しだけ特別な友人同士のはずだ。
何故、ビスタニアに王座を明け渡すような真似をしたのか。
最初にそんな疑問が浮かんだ。
壊滅的だと分かっている自分の順位を確認するよりも先に目に入り込んだ現実。
次席にエルガの名があれば、何も思わなかっただろう。
しかし、次席にはルーカスの名があり、その下を探してもどこにもエルガの名前だけは見当たらなかったのだ。
まるでぽっかりと存在を消してしまったかのように。
ビスタニアは首席になれば卒業式に告白をする、と言っていた。
だが、最初から『どうせその土俵にすら上がれるはずがない』と心の中で思っていた。
そして今朝、とうとうそんな小さな臆病さを思い知った。
そんな事を考えている自分とは違い、こうして雪の上に小さな足跡を残しながら前を歩いて行く彼女は自分が固執している、こんな約束など忘れてしまっているのかもしれない。
素直に人の功績を喜び、称えられる。
普段なら口でいくらでも言えるはずなのに、今はそれすらも出来そうにない。
シェアトと甲斐の距離はどんどん離れていくかに思えた。
傍から見ると一方的に置いて行かれているようだ。
しかし、甲斐は何度も振り返り、こちらの位置を確認して歩幅を調整してくれている。
それが少し嬉しくて、わざと歩みを遅くしている。
他の男の心配をして、早く他の男に会いに行きたいと言われ、こちらとしては朝からブルーだ。
まるで胸糞が悪くなる映画を見た後に汚い色をしたジュースを朝食だと言われているようで。
少しでもゆっくり歩いて、彼女が他の男と話す時間を減らす。
これが唯一、プライドが許す精一杯の抗戦だ。
「なあ!」
「んー? なにー?」
「……ぇのー?」
わざと前半を聞こえるか聞こえないか程度の声で叫んでみる。
まんまと罠に掛かった甲斐は、走り寄って来る。
「何言ってんだか分かんないんだけど! なんだって?」
「俺にはなんか言う事ねぇの?」
「え? 何? 肉球見せて欲しいとか? 違う? 例えば?」
もし自分に肉球があるのなら見せてやりたいと思った。
そうすれば、あの憎き赤毛の事なんて吹き飛んでしまうのではないだろうか。
「……お疲れ、とか。もっと俺個人に対して話したい事とかねぇの? エルガとか、赤毛にはちょくちょく会いに行ってまで喋んのに、なんで俺にはそういうのねぇんだよ?」
「えぇ……? だってシェアトにわざわざそんな話す事なんて…」
「無いか、そうかよ。じゃあせめて俺と一緒にいる時は『俺と』二人で何か話してくれ、気が変になりそうだ……。他の奴の話すんなよ」
ざっと横に雪を蹴り上げると、舞い上がった雪がシェアトの表情を一瞬隠した。
こんな事を言う権利はただの友人には本当は与えられないだろう。
それでも、口をついて出てくるのは彼女を困らせる言葉だけだった。
「またいじけてんの? シェアトって手がかかるよね。かまってちゃんだし、うるさいし、馬鹿だし」
「しょうがねぇだろ。お前のせいでこうなったんだ、これでも随分我慢してるんだぜ? 出来る事ならお前を檻に入れて誰にも会わせたくないんだ。……俺っておかしいだろ」
「シェアトがおかしいのは元からでしょ。ほら、おいで。いじけてないで一緒に行こう。あたし、めんどくさがりだけど手を焼かされるのは嫌いじゃないよ? シェアトに限らず、みんなややこしいんだもん。慣れたよ、だから今更驚かないから」
いつもこうだ。
こうやって上手く手の平で転がされてしまう。
ほら、伸ばされた手を知らん顔なんて出来ない。
甲斐の手は冷たくて、手を引っ込めてしまいそうになったがそれよりも彼女が握り締める方が先だった。
そうかこれは作戦なのか。
無邪気に隣で笑って、また見た時には真剣な表情をして走り出して、何度も追い掛けては息切れしそうな時に振り返って呼び戻して。
もう無理だと弱音を吐くと応援して、単純な俺は何度だって立ち上がってしまう。
「あー……俺、幸せだわ」
「機嫌、直った?」
覗き込んできた甲斐はにやりと意地悪く、歯を見せて笑っていた。
「手、離したらまた機嫌悪くなるぜ?」
「はいはい、シェアト君はお子ちゃまですね~」