第三百四十二話 二人の真相
甲斐の試験の調子はすこぶる良好である。
エルガの指示通り、長文問題を嫌というほどこなした成果が出たようで、かなり早く解答を埋める事が出来た。
昼食を抜いた事を今更後悔していたが、もう遅い。
夕食まではあと二つも試験が待っているのだ。
久しぶりに泣いたせいで鼻が詰まり、頭の奥がぼんやりとしている。
残り時間は半分以上あるが、見直す気力が出なかった。
解答欄が全て埋まっている事だけを確認すると、そのまま机に腕を枕代わりにして目を閉じた。
手が暇になるといつもの癖で、左手の薬指にはめられた指輪を親指でくるくると回す。
出来るならこのまま翌朝まで眠ってしまいたい。
夕食は食べたいが、シェアトと顔を合わせたくはなかった。
故意に何も言わず、席を離したのを怒っているだろうか。
舌打ちが聞こえたような気もした。
心配して探しに来てくれた皆には申し訳なさが募っていた。
事の発端はこの指輪だった。
午前の授業が終わろうとしていたその時、指輪が急に熱を帯びた。
最初は気のせいだと思っていたのだが徐々にその熱は高くなり、やがてはめていられなくなった。
すぐさま外し、どうしたらいいか分からずにポケットに放り込んだ瞬間、目の前には試験監督であるロウが鋭い睨みを利かせていた。
思わず奇声を上げてしまった事により長い注意を受けたが、それどころでは無かった。
終了となるや否や荷物を引っ掴み、持てない温度になってしまった指輪をどうするかと思えば、来ているセーターの袖を引っ張り出すとその中に包み、教室を飛び出す。
そしてとにかく鍵が掛かっていない空き教室へと駆け込んで行った。
ドアを閉める間も惜しんで床に指輪を落とし、セーターが燃えていないか確認したが熱さが残っているだけで特に発火はしていない。
胸を撫で下ろしたのもつかの間だった。
「おい! 昼飯に行かねぇのか?急にどうしたんだよ」
追い掛けて来たシェアトが入って来た。
なんと説明をしようと考えている時に、指輪が光り出したのだ。
最後まで見たと思っていた映像がまだ残っていたのだろうか。
もしもシェアトに関わるような物ならば見せられるはずがない。
スペルを合わせていないのに暴走状態となった指輪がこの後どうなるのか分からないが、放ってはおけない。
とにかく彼をこの教室から出さなくては。
「……シェアト! もう大丈夫だから! 走り出したくなる時ってあるでしょ!? それが今だったんだよ!」
「はぁ? おい、なんかすげえ光ってんぞ。あれなんだよ? 押すなバカ!」
言われて見れば、カーテンが中途半端に閉められている教室内が明るくなるほどの光量となっている。
何故指輪が急にこのタイミングで暴走したのかは分からないが、どうやらもう時間が無さそうだ。
「シェアト! ここから出て! 爆発する! ……かも」
「なんでお前を残して逃げれんだよ! カイも行くぞ!」
「あたしは駄目なんだってば分からず屋のイカレぽんちき! ……あっ」
ノイズが聞こえ、甲斐は振り返った。
シェアトは何かに目を奪われている。
床に置かれた指輪が映し出していたのは、ただただ真っ白な世界だった。
「おい……これ、なんだよ? お前の指輪から流れてんのか?」
「静かに……。なんか、聞こえる」
ぼそぼそとした誰かの話し声と共に、近付いて来る足音も聞こえていた。
そして真っ白だった世界はカーテンレールを走る滑車の音と共に視界が開けていく。
『……甲斐、全く! いつまで寝てんの!』
聞き覚えのある声が聞こえた。
まさか、と思う甲斐をよそにベッドの横でかがんだ拍子に映り込んだ姿は紛れも無く母親だった。
入隊試験の実技の前にトレントの元へ向かい、魔力器を返還した甲斐は記憶を取り戻している。
母である亜矢の顔も、声も、父の遊馬のはにかんだ時に見せる癖も何もかもを。
叫び出したくなるような焼ける想いを押し込んで今日まで来たが、こうして手に届きそうな場所に母が映し出されている。
涙は、自然に流れていた。
映像の中で亜矢は甲斐の左手を右手に重ねて、体の上に乗せたようで視界が上がった。
そしてゆっくりと上体が起こされ、部屋が見渡せる。
白が基調になっており、無駄な本や、勉強にはさほど使いもしない机も消えている。
これはもしかしたら、今現在の元の世界の映像なのではないだろうか。
そして母親である亜矢が呼んだ甲斐という相手はもしかしたら、この世界にいたはずの行方知れずの甲斐なのではないだろうか。
亜矢の言葉にいつまで待っても甲斐からの返答は無かった。
それに対して亜矢は今まででは考えられないが、特に文句も言わずに部屋を片付けているのか、視界から外れて動いている音が聞こえている。
「おい……これ……。もしかして、もう一人のお前じゃねぇのか……? ……そいつの持ってる指輪かなんかの映像が今見えてんじゃねぇのか……?」
「うん……うん……そうかも……。よかっ……良かった……。そっか……入れ替わったんだ……。そうだったんだね……良かった……」
最後に甲斐に送られた映像ではこの世界の甲斐が酷い怪我を負い、そのまま倒れてしまっていた。
安否が分からない上に、それを知る術も無かったがこうして亜矢がいるのであれば入れ替わり、上手くやっているようだ。
安堵感からか、嬉しそうにしている甲斐の横でシェアトは目を見開いていた。
「……良くはねぇだろ……。お前、ちゃんと見ろよ……! 俺の認識が正しきゃ……こいつは……」
映像から二人は目を離せぬまま、シェアトが言いかけた時に新しい誰かが入って来たようだ。
『あら! 東藤さん、いらしてたんですか? おはようございます』
『おはようございます、ごめんなさいね朝早く。出社する前に顔出して行こうと思って……』
『いいんですよ、検温と採血、あと血圧を見に来たのでゆっくりなさって下さい。甲斐ちゃん、腕捲るね』
亜矢の反対側に回ったのはナース服の女性だった。
胸ポケットには数本のペンが刺さっており、慣れた手つきで袖を捲ってチューブを巻きつけて血管から血を取り始めた。
ぴくりとも動かない甲斐の体、そして一言も話さない彼女は寝ているだけではない。
『甲斐、それじゃお母さん行くからね。……早く、起きなさいよ。ねぼすけ』
『行ってらっしゃい。……甲斐ちゃん、頑張ろうね』
『それじゃあ、今日もよろしくお願いします』
『ええ、お任せ下さい。……さて、と。……あら? ……目が……目が開いてる……。大変!』
ここでゆっくりと映像が消えて行った。
それは波が引いて行くかのように、最後まで余韻を残して静寂へと移り変わった。