第三百三十七話 エルガの思惑
静かな教室にペンが走る音が響く。
時折誰かの咳払いや鼻をすする音、衣擦れの音も混じる。
エルガの隣にはビスタニアが座っており、二人はほぼ同じペースで解答していた。
精神強化や法律に関わる設問はとにかく問題文が長い。
その文を読んでいる時以外、筆が止まる事は無かった。
これがこのフェダインで受ける最後の試験となる。
ふと、最後の数問を残してエルガは手を止めた。
そして顔を上げてみると、この教室内で自分以外の人間が机に向かい、頭を下げて同じようなポーズを取り、必死に手を動かしている。
それは幼い頃から嫌になるほど見て来た光景と同じだった。
時間という概念が失われていく中で、最低限の休憩を挟み、ひたすら次の合格点を目指して世界中のありとあらゆる知識を詰め込んだ日々。
人の顔など認識したことも無かった。
今も鮮明に思い出せるのは、人の後頭部とこの地鳴りのような机をペンが叩く音。
合格出来ずに強制的に退室させられていく生徒は、まるで無価値だと烙印を押されたようだった。
声も出さずに泣く者、助けてと声を出す者もいた。
誰も、机から顔を上げないのを分かっていてもそれでも縋る彼らのようにはなりたくないと思った。
フラッシュバック、なんてものは今まで一度も無かったのに。
卒業という二文字がこうさせているのだろう。
悲しみも、怒りも、楽しさも無かった今までの人生でここで過ごした三年間は己の人生で最も幸せな日々だったと言えるだろう。
一生の内にこんな体験が出来たこと自体、ラッキーだったのだ。
そう本気で思っていたし、基本的に波立つような感情自体存在しないと思っていた。
それなのに甲斐が関わる事では全ての感情が呼び起こされるのは不思議だった。
結局のところ何が作用しているのか考えてみたが、否定しきれないのはやはりただ一つの単純な根底にある感情のせいなのだ。
甲斐の事が好きだから、笑顔でいて欲しい。
それだけの事だった。
隣にいる事が出来ない分、傍にいられる間は彼女を守りたい。
残されたわずかな時間で一体どれ程の事が出来るだろう。
『ありがとう』と言われる度に心が痛んだ。
それは甲斐に限った事では無く、友人達の気持ち全てに対して。
礼を言うのは、自分の方だ。
ただひたすらに醜く足掻いているだけだった、とは知らないで欲しい。
飄々として誰にも何も残らないような存在でいたいと思っていたのは昔の話で、今は必死にもがいて自分が確かにここに存在したと残したくて仕方がないのだ。
実に滑稽な話だと思う。
多くの記憶に残りたくて。
沢山の思い出の中に存在したくて。
笑顔を向けてもらいたくて仕方ないんだ。
忘れたい 忘れないで
置いて行く 追って来て
手を離す 離れないで
矛盾した感情と思いが、爆発する時を待っているかのように脈打っている。
それを制御するのは、焦がして黒く重く頑丈に作り上げた自らの枷。
「(あと一仕事、しなくちゃな)」
瞳を閉じる中に浮かぶ笑顔。
やるべき事は、分かっている。
「(ビスタニア、僕は君をとても気に入っているんだよ。可哀想になるほど不器用で、立ち回りが上手くない君はだからこそカイに真っ直ぐだ。絶対に裏切ってくれるなよ?)」
ビスタニアはどうやら勝手な期待をかけられやすいようだ。
「(彼女の最後のその時まで一緒にいられる可能性があるんだ、酷く羨ましいけど仕方がないね。シェアトと張り合うのは骨が折れるだろうけど、舞台に花を添えてあげよう。肩入れしてるのかもしれないけど、最初で最後だ。きっとシェアトも許してくれるさ)」
本当に微かに、隣でエルガが笑った気がした。
まだ時間は半分ほど残っている。
ビスタニアが最後の問題を解いた後、何かを書き込み続けるエルガが起こす小さな振動で、持ち帰りが許可されている問題用紙に解答を書き込んでいるのを察した。
答案の照らし合わせをするのに必要かとあと数問で終わるので、真似してみようと思った。
「(それにしても同じペースだと思ったのにやはり置いて行かれたか……。いや、速さよりも正確性だ。見直しついでに書き込んでいくか。……今回は譲れない)」