第三百三十一話 エルガと子犬
クロスは部屋に戻る途中だった。
雪が好きなトライゾンは降って来る雪を捕まえようと、二本足で立ち上がって短い両手を振っている。
出来る限りゆっくり歩いて、トライゾンが追い付けるようにしながら、空を見上げると無数の雪が落ちて来ていた。
一つを見続けようとしてもすぐに見失って、また新しい一粒に焦点が合う。
それはまるで今の状況のように思えた。
一つを突き詰めても、またすぐに新しい事が不安になりあちらこちらへと手を伸ばし、結局どれも手に入れきれずに途方に暮れている。
時間が足りないのか、それともただの杞憂なのかはまだ分からなかった。
「……ひゃああう!?」
後ろから両頬を冷たい手で挟まれ、高い悲鳴を上げてしまった。
前を歩いていた二年生の女子達がくすくすと笑った。
「びっくりしたかい? 僕もびっくりしたよ。君が出て行ってもう部屋にいる頃だと思ったのにまだこんな所にいる。それに、ここは寮に続く道でもないし。まったく、僕を困らせないでおくれ!」
首を振るエルガの登場にクロスは何が何だか分からない。
「そ、そんな事を言われても……。どうしました? 僕に用ですか?」
「用は無いよ! 君がたかだか卒業試験で暗いので皆そわそわしているのさ。僕は微塵も気になっていないのに君を励まして来いと言われてね……。これも完全無欠な僕の悲しい運命なのさ……」
「ああ……そこまで正直に言われると思っていなかったので、ショックが隠し切れないです」
言いたい放題言われていると、エルガは自分の胸に手を当ててこれまた大袈裟な動作でクロスへ手を差し伸べた。
「君の試験勉強を手伝ってあげよう。それで解決するね? 僕と君の頭があればあと数日で間に合うさ」
「……えっ……! ありがとう、ございます……!」
本当に、嬉しい申し出だった。
エルガに勉強を見てもらえるなんて、思っていなかった。
「あれ、でもミカイル先輩は本当に自分の勉強をしなくていいんですか……?」
「僕の心配を出来るような立場かい? まったく、最後の最後でこれだよ。しっかりしたまえ!」
激励をされて気が付いた事がある。
そうか、また自分は『しっかりしていなかった』のか。
「何か言いたい事でもあるのかい?君はもう少し先輩達から見習う事があるよ、誰かに気持ちを伝えるのはとても大切なんだ。この世で溜め込んでいいのはお金だけだからね!」
この雪景色の中に立つエルガの肌は、徐々に赤くなっていた。
まるでこのまま雪に全ての体温を奪われ、ゆっくりと消えていってしまいそうな透明感は、どこか現実感を薄れさせる。
「……そんな、伝えるような事でも、ないんですよ……」
「魔法をかけてあげようか? 素直に胸の内を話せる魔法。捕虜になった者に有効な魔法だからしんどいかもしれないけど、きっと今の君よりは幾分ましになるはずだ!」
「そ、それはやめて下さい。自主退学しますよ。……ただ、ちょっと……ちょっとだけ! 怖くなっていただけです」
「何がだい? 君は卒業試験といっても、今回だけって訳じゃないだろ? ……まあ、それは僕達もそうなんだけどね! もしかしたら君の兄さんはもう一度三年生を楽しむかもしれないし」
革靴からとうとう足の指先へ冷えが辿り着いた。
ポケットに手を突っ込んで暖を取りながら、どう伝えたらいいのか分からず途方に暮れているとエルガの口がとても楽しそうに横に伸びた。
「試験が怖いなら辞退したらいい。君は真面目過ぎるんだ。当日、頭痛や腹痛。はたまた自分自身に魔法をかけて一日眠ったらいい。きっと気分も良くなるだろう。頭の使い方は色々なんだ」
馬鹿げた提案をまるで最善の策のように話すエルガに腹が立った。
「勘違いしないで下さい! 僕は逃げませんから!」
「へえ? 今その状態でいい結果が出せると思っているのかい? 卒業試験は普通の試験よりも難易度が上がるんだ。逃げるのが悪い事だと思うとこの先しんどいよ」
「僕と二つしか変わらないミカイル先輩にそんな事を言われたくないです! 僕は今逃げる訳にはいかないんだ!」
「吠えるね。大丈夫、僕は悪意無き暴言には寛大なんだ。……そして卒業試験に対して随分執着するね。一体何がそうさせるんだ?」
どこまでも調子の変わらないエルガと話していると、熱くなっているのが馬鹿らしくなる。
失言を謝らないのが唯一の抵抗だった。
どうして分かってくれないんだろう。
そんな気持ちが急いて先走った。
身勝手だと分かっていても、誰一人に伝わっていないのが悔しかった。
誰かに伝える事を恐れていた、弱い自分の台詞。
それを今、吐き出そうとしている。
「……皆さんがいなくなった後、一人で学校にいるのを想像してみたんです」
ああ、こんなにも人は弱いのだ。
「……まるで、全てが夢だったとしか思えないくらい切なくて……。それは、とても悲しい事でした」
一人きりの食堂も、移動も、何もかもがとても悲しい事に思えた。
賑やかさを知ってしまったから。
「……僕は、今回の卒業試験で皆さんと一緒に卒業したいんです。でも、もし卒業できなかったらと思うと……怖いんですよ。思い出が、あまりにも多すぎます……。ずるいですよ……、これだけ引き込んでおいて……」
涙が頬を伝っていく。
『置いて行かないで』
やっぱり、そんなに素直に言えないけれど。
「こうやって無理矢理にでも捕まえないと話さないなんて、どれだけ面倒なんだ。これがカイなら僕は優しく何時間でも話すまで待ってあげられたんだけど流石にもう寒いし。相手がカイ以外なら荒っぽい方法に限るね」
まるで全てお見通しだったように笑っているエルガに悔しさが込み上げる。
「やっぱり寂しさからの不安か。まだ幼いから無理もないけど、幼さを武器にするならもっと上手くおやり。噛み付いて吠えるだけの小型犬は可愛がられないよ。時には甘えて上目遣いで尻尾を振るのも覚えないと」
分かっている。
可愛げが無い事なんて嫌になるほど知っているんだ。
それでも。
こうやって、暖かな手で頭を撫でてくれるのを期待してしまう。
吠えるのも、噛み付いてしまうのも全部受け入れて欲しい。
理解なんてしなくていいから、ただ分かって。
どうしようもない僕を優しい人達が見守ってくれているのも知っているから、必死にもなる。
追い掛けてくれるのを分かっていて、足を止めていた部分もあるけどこれも一つの頭の使い方。