第三百三十話 クロスの葛藤
卒業試験を控えたクロスは、何も手が付かなくなっていた。
食事をしていても周囲で勉強をしながら食べている者を見れば自分もそうするべきだったと思ったし、勉強をしていても常にもう一人の自分が焦らせてくるのだ。
こんなんじゃ駄目だと、一つでもミスをすれば拳を机に叩きつけ、冷静さを失いかける。
それなのに試験前という事を忘れているのか、いつものメンバーは何一つ変わらない調子で談笑しながらゆっくりと食事をしている。
その余裕がクロスをじわじわと苦しめた。
卒業するには全体の半分よりも上位に食い込めばいいのだ。
しかし特別措置は無く、範囲の広さは他の三年生と同じだ。
数か月しか各学年の授業を受けず、ポイントだけを押さえてきたクロスにとっては不安だけが心に渦巻いていた。
世界観測機関の試験は卒業後だが、その為にもまずは卒業試験をクリアしなければならない。
圧倒的不利な状況だが、今年の三年生の平均的な学力も分からぬまま、本番に臨む事になる。
最近めっきり構ってやる事が出来ないトライゾンも、気を遣っているのか食事時以外は大人しく眠ってくれていた。
「クロス、まずそうな顔すんなら食うなよ」
真似をしているつもりなのか、シェアトは思い切りおかしな顔をしてフォークに刺したビーンズを飛ばしてくる。
「やめなさいよ、試験前だものクロスだってプレッシャー感じてるはずよ 。神経のしの字も無いシェアトには分からないでしょうけど! そんな風に意地悪言ってると一人で三年生をもう一年やる事になるわよ?」
クリスに立ち向かう勇気は無いらしく、シェアトは鼻を鳴らして食事に戻った。
しかしクロスは席を立つ準備を始めている。
「……もうお腹がいっぱいなのでちょうど良かったです。……では、先に戻りますね。行くよ、トライゾン」
シェアトを睨みもせずに食堂を後にするクロスを皆が見送る。
「なーに一人で辛気臭ぇ面してんだ、あいつは?」
「あちゃー、シェアト君に反撃する余裕も無いと見た。今年はビスタニアが元気そうだと思ったら、なんだい悪い病気をクロスに移したのか?」
ウィンダムが額を叩いて笑うと、名前を出されたビスタニアが眉をひそめた。
「何の事だ。あればっかりは自分で対処するしかないからな。原因は自分で分かっているはずだ。それと向き合うのを逃げていてはいつまで経ってもあのままだぞ」
この雰囲気の中、フルラが勇気をみせた。
目一杯明るい声を出して、引きつりながらも笑顔を作る。
「こんな時は私達の秘密兵器ぃ……カイちゃんの出番! ……なんちゃって……」
「あたし? 何をどうしたらいいかな? 試験前にああなるって事はそれだけ試験を大事に思ってるって事でしょ? ……喜ぶべきか分かんないし、あたしには理解出来そうもないけど。終わるまではどうしようもないのかなって思ってたんだけど行くべき?」
言葉の合間合間でデザートを頬張りながら甲斐は皆に問いかける。
甲斐の言葉に真っ先に反応したのはエルガだった。
「クロスはナイーブなんだね! いけないなあ、紳士たるものどんな状況でもどっしりと腰を据えて落ち着いていなくちゃね! 僕をご覧よ! この余裕たるや、もしかしたらフェダイン一かもしれない! ああっ、いけないね! カイが試験前に胸が高鳴って眠れなくなってしまう!」
「思ったんだけど、エルガ。貴方が少し先輩らしいことをしたらどうかしら」
冷静な切り返しをしたのはクリスだった。
その言葉が意外だったのか、それともクリスが嫌味でもからかいでもなく真剣な顔をしていたのに驚いたのかエルガは一瞬意表を突かれていた。
「……僕が? クロスにかい? やめておくれよ! クリス嬢は何か勘違いしているね? 僕はそもそも面倒事には首を突っ込まないという信条があるんだ。放っておいても死にはしないさ! 見たかい!? クロスのあの艶やかな顔色を! あれは栄養と睡眠が十分足りている証拠さ! 良かった良かった! それに今回はカイだってそんなに気にしてもいないし、僕にとって動く理由は一切無いね! これ以上は誰の指図も受けないよ!」
憤慨しているエルガをよそに周囲の者達はクリスの提案に同調し始めている。
「エルガ、二年連続首席の君の事をクロスは尊敬しているし……きっと励みになると思うんだ。僕からも頼むよ。あのままじゃクロスが可哀想だ。今は大丈夫でも試験当日に体調を崩すかもしれない」
「ルーカス! 君まで何を言い出すんだい!? 君達クロスを何歳だと思っているんだい? じゃあ彼が落ち込むその度にその状況に適した人間が励ましに行くのかい!? それはいいね! どこの啓発セミナーだい!?」
今回、というよりもエルガは元々こういった事には不介入といったスタンスを取っていたのだ。
それは付き合いの長いシェアトとルーカスが特によく分かっているはずである。
「少しは彼の強さを信じて見守ってもいいと思うんだ、そうだその方がいいに決まってるよ!」
そう締めくくったエルガは皆の非難がましい目線を避けるように紅茶を注文した。
だが、この中に一人だけエルガの味方をする者がいた。
クロスの兄である。
「ああ、そうだ。どいつもこいつもあいつを甘やかし過ぎなんだよ。普段生意気な癖に弱る時はとことん弱りやがって。ほっとけほっとけ!」
「流石は実の兄だね! 放っておくのも勿論心苦しいよ!? でも仕方ないよね、人は誰しもそんな時もある! それを乗り越えた時に成長できるのさ!」
手を取り合った二人に、とうとう神の鉄槌が下りようとしている。
フルラに急かされ、そしてクリスの縋る様な目によって甲斐がようやく声を上げた。
「いいからグダグダ言ってないで早くクロスちゃんを追いかけて元気にさせて来な。その金髪は頭の中に植えられてる種から発芽した繊維か何かかよ」
「……そうだね! カイの言う通りだ! 僕はどうかしていたらしい! 友人とはいつも傍にいるべきだし、共に励まし合い、分かち合うべきだ! そうだろう!? 明日にはクロスの笑顔が見られるだろう! こうしちゃいられないね、クロスが待っている! じゃあ、僕は失礼するよ!」
鶴の一声でエルガはきびきびと立ち上がると、足早に食堂を去って行った。