第三百二十話 ルーカスの実技試験
二次試験を終えた甲斐は、かなり上機嫌でフェダインへ戻って来た。
彼女の様子を見た誰もが、良い結果を残せたのだろうと理解しただろう。
甲斐が試験に向かってから、ビスタニアはきっかり三十分おきにトイレだの知書室だのといって自室から出て甲斐が戻って来ていないか確認をしていた。
それがあまりにもしつこく、そして一々呟く独り言も耳障りだとブーイングがあったので仕方なく彼は皆と同じように甲斐をロビーで待っていた。
甲斐が嬉しそうな事に、誰よりほっとしているはずなのに、咳払いをしてから結果が良いといいな等と冷静な言葉を述べる彼にクリスが逆に咳払いをした。
「ありゃ? ルーカスはまだ?」
「そうなのよ、もう戻って来る頃だと思ったんだけど……」
「僕の予想としては手術の技術や、様々な種類の傷の治療の速さと正確さを問われると踏んでいるよ。残念ながら試験問題や実技試験に関する情報は皆無だから、その点では他の志願者と対等だろうけど『神の子』は合格者の無い年も珍しくないからね。でも、今のルーカスには他の人との圧倒的な差が生まれているのを忘れるなかれ! なんていったってこの僕が昨夜まで付きっ切りで指導したんだ! 不安に思う事は何一つ無いから安心したまえ!」
胸を張って髪を掻き上げたエルガはクリスにウィンクを投げる。
確かにその通りだとは思うが、今はそんな少し引っ掛かる物言いのエルガと会話に付き合っている余裕は無かった。
その頃、話の中心になっているルーカスは人体と同じ構造の人形を治療していた。
最初にルーカスがこの部屋で目にしたのは、人形とそれに貼られた誓約書だった。
誓約書の内容としては二次試験で自らの体に後遺症等が残っても、異議申し立てはしないというものだった。
迷うことなくサインをした途端、その人形は体の至る場所に怪我や病を発症し始めたのだ。
骨や血液も備えられ、ちゃんと脈拍も取れる人形の繊細さに驚いた。
治療にかかる時間は計算しているが、今までひたすらにこなした治療数から現在に至るまでの時間を考えているほどの余裕は無い。
もう何時間こうしているのだろう。
見ているだけで痛くなってくる断層や、重度の火傷、撃ち込まれた銃弾や内臓まで達している金属片を除去し続けた。
治したと思えば、この人形はすぐに鮮血を上げて新たな傷が生まれる。
迷う暇も考える暇も無かった。
ただひたすらに、命など存在していないはずの人形の体を癒していく。
この試練の先に待つ医師団に白衣など存在しない。
あるのはステルス仕様のローブと、血と怒鳴り声の世界だ。
そして何よりも最初に与えられたのは、この永久に怪我をし続ける不遇な人形だけだ。
他の入団希望者がいるのかどうかも分からないまま、広いタイル張りの部屋で黙々と治療を行っていた。
バイタルを見る魔法医療機器も無いが、人形に設定された鼓動や血圧などを全て自分自身に数値化して確認しながらの手術となる。
以前のルーカスであれば、とうにスタミナ切れを起こしていたはずだ。
魔力は確かに残り少ないが、まだこの速度に体は付いていっている。
ただ、どこよりも先に疲れが手に現れてきている。
指に力が入らず、一度でも目を瞑ってしまうとぐらりと体が回った気がした。
「(……この人形、いつになったら健康体になるんだろう……。治しきる前に、僕が倒れそうだ)」
最後の一縫い後、傷口の直りを早める魔法をかけているとラストスパートだという様に、人形の体に紫の斑点が出現した。
「(……これは……!? 毒……? いや、感染症? ……思い出せ、今まで読んできた本の症状を……。この広がり方なら人為的にかけられた魔法ではないはず……。毒だとしたら、こうして皮膚に症状が現れるならもうとっくにバイタルが異常な数値なはずだ……。となれば、感染症……!? ああ……ああ、まずい!)」
はっと顔を上げたが、もうこの無菌状態にしている空間は人形の肌に現れた紫と同じ霧の様なもので包まれていた。
外部から何も入り込むはずはない。
ぼこっと膨れ上がるような音がしたので人形を見ると、腕の辺りは濃い黒色に変色して、そこからこの霧は発生しているようだった。
いつからそうなっているのか、異常に廻りが早い。
こうなってしまっては今更呼吸を抑えても遅いだろう。
それに自己防衛措置を取っていてはこの人形の体全体に斑点が回り切ってしまう。
手の震え、片目に表示されている人形のバイタルの数値、浅く早くなった呼吸。
どれをとっても最悪だった。
目が霞んできたのは疲れなのか、この漂う不吉な霧のせいだろうか。
体が動かなくなる前に処置に映る事にした。
人形の黒くなった皮膚を一部剥ぎ取り、至急分析にかける。
体の組織を壊している原因さえ突き止められれば、治療魔法の組み合わせによって抑制や鎮火を計れるかもしれない。
くらくらと回る視界と、思考そのものを停止しようとする頭を気力で叩き起こして人形の状態を見る。
今、この時もじわじわと斑点が増え続けていた。
分析に間違いが無いようにと様々な構成式を組んでおいたおかげで正確性が上がったが、その分時間が若干掛かってしまう。
仕方がないとはいえ、この時間に焦りが生まれる。
分析結果が出た瞬間を逃さず、必要な魔法をかけていく。
何をしているのか理解するよりも、体が先に動いていた。
全ての処置が終わったが、即効性のあるものではないのであとはこの人形の体力に任せるしかない。
それは本当に、一瞬だった。
気を抜いたのがいけなかったのだろう。
足に力が入らなくなり、倒れ込む。
呼吸が嘘のようにゆっくりとしか出来ず、酸素が足りない。
目を閉じようにもどうしたら閉じられるのか分からず、何を優先すべきか分からなくなった。
目の前に降って来た右手は感覚が無いまま、ゴムの様に小さく床で跳ね返った。
紫に染まった腕は輪郭が歪み、いつしか滲むように溶けだして何も見えなくなった。