第二百五話 帝王の怒り、とくと見よ
手首を握られているせいで手に血が巡らず、痺れた感覚に変わってきた。
この細い体のどこにそんな力があるのかと驚くほど、エルガの手は振り払う事が出来ない。
そして今、どこに向かっているのか分からないが、足を止めても引きずられるだけなのでペースを合わせて付いて行く。
校舎裏に来ると、ようやくビスタニアの手を離し、エルガは振り返った。
長い髪の毛がさらりとなびき、もう少しで沈むであろう夕陽の光を集めたその瞳からはぞっとするような冷たさを感じた。
そういえば、彼は甲斐の熱狂的な信者だった。
当然といえば当然の反応なのかもしれない。
「さて、さっき君はカイに何を言おうとしたんだい?」
「……いや……。……なんて事はない……、本当に。頭が冷えた、止めてもらえて、感謝している」
「月組に三年もいるんだ、僕達の鉄則は知っているね?」
月組の中で重要視される要素、そしてそれは鉄則でもある。
一つ、どんな状況でも決して熱くならぬ事。
二つ、どんな言動にも決して乱されぬ事。
三つ、勝利の為に盾を捨てる覚悟を持て。
同じ組であれば知らない者はいないだろう。
知って、それを実行してこそ一人前だと言われるのだ。
これを持ち出してきたエルガが何を言わんとしているのか、分からない程腑抜けているつもりは無かった。
「さっきのは……悪いと思っている」
「答えになっていないよ。あの場で、何を言おうとしたんだい? 元の世界に戻れと? そんな事を言う権利が君にあるとでも? 事情を知らない二人がいたのに気が付かなかったなんて、言わないでくれよ」
あまりにも、あの時の自分は無防備過ぎたのだ。
エルガが止めに入らなければ、最後まで言ってしまっていただろう。
しかしこうして追いつめた獲物を狩るような目を向けている相手に、説明できるような内容は無い。
言い訳をするつもりも無いので、そのまま黙っていると彼の手が首元へ伸びて来た。
驚いて下がった拍子に校舎の壁に背中が当たる。
「僕はね、ビスタニア。君の事は嫌いじゃない。カイの事を好きなんだろう? 彼女の事を大切にしてくれる者は、僕は好きだ。でもね」
ビスタニアのネクタイに手を掛けると、結び目をもう一つの手で押さえ、ゆっくりと下へと引いて首周りを締めて行く。
「だからこそ、彼女を傷つけたり、困らせるような事をする者は許せないんだよ。それが例え、どんなに混乱していたせいだとしてもね」
「かはっ……!」
思い切り締め上げられ、エルガの手をがむしゃらに掴んで爪を立てた。
意に介していないようで、微笑んだままこちらを見つめている彼は普段とは別人のように見える。
ようやく放された瞬間、反射的に彼の胸元を押しのけて距離を取り、ネクタイを緩める。
「……次は、無いよ。また人にあたる前に、自分の躾は自分でしたまえ。そうでないと、生き辛くなる。まあ、その点ではまだシェアトの方が大人だね!」
爪が深く食い込んだせいで血が滲んでいる手の甲を、舌で舐めながらエルガは声のトーンを最後に戻して帰って行った。
陽も落ち切り、風が涼しくなり、夜に合わせて虫の声が響く中でビスタニアは空を見たまま座り込んでいた。




