第二百二話 夕暮れの中抱きしめたのは
「シェアト、そういえばさあ」
「おう!? なんだ!?」
話しかける度に弾ける笑顔を向けられ続けていると、その内胸焼けを起こしそうだ。
一種の嫌がらせを実行しているのだろうか。
一日の授業が終わり、二人並んで歩く中でまだ沈もうとしない太陽が二人の影を伸ばしていた。
「……反応がキモい。何その顔……」
「何って笑顔だろこれは! 別にキモくねぇよ! なんだよ、お前もいっつもそんなぶすっとしてねぇでちょっとはニコっと可愛らしく笑えよ。……そういえばあんまり笑わねぇよな」
「そんな事無いよ!? シェアトがこの場で瀕死でのたうち回ってたら笑うだろうし。でも、シェアトは最近なんか楽しそうだよね」
「真顔で人の不幸を期待するなよ。……ま、楽しいしな。お前がいると」
そう言った横顔は橙に染まる景色の中で、一際赤みが強い。
照れる位なら口にしなければいいのにと思ったが、急に足を早めたシェアトに何も言えず、慌てて追いかける。
「なんで逃げんの!? ちょっと! 疲れるから走んな!」
「う、うるせえな! 今珍しい虫が飛んでたんだよ!」
「はあ!? そんなん舌でも伸ばせば取れたでしょ! ああもういいから止まれ!」
飛びつくように後ろから腰に手を回され、動きを止められた。
走ったのは大した距離ではないのに、心臓の動き方が酷い事になっている。
「なっ、なななんつうことしてんだ! こ、このハレンチ娘!」
「シェアトが止まんないからでしょ。……あれ、なんかいい匂いすんね。香水?」
鼻を鳴らして背中で匂いを嗅いでいるのが分かる。
腹部に回っている手は小さく、袖口から見えている手首は、強く握れば折れてしまいそうなほどに細い。
こうして密着したのは初めてで、彼女の熱が自分の熱と一体になるのが心地良い。
「……ぶはっ、これ何使ってんの? あたしのジャケットとはまた違う匂いするけど、こっちの方が好きだな」
勢いを付けて振り向くと、驚いた甲斐の顔を見たまま衝動的に覆い被さる形で抱きしめた。
どの程度まで力を込めていいのか分からず、小さな肩幅が恐ろしいほど華奢だった。
「……カイ、俺……」
息が出来なくなり、力が抜け、足が地面から離れ体が宙に浮いた。
倒れる寸前に見えたのは拳を上に突き上げている甲斐だった。
「殺られる前に殺る。それが、生き残る知恵だっ!」
地面に落ちる前に、消えそうな意識の中でシェアトは思い出していた。
そうだ、こいつは空気が読めない上に頭が少し不自由だった、と。
そして周囲のざわめく声を聞きながら、一連の流れがかなりの人前だったことにようやく気が付いた。
その中には、一人にこやかに笑っているように見えるが目だけが一切笑っていないエルガや、金切り声で消毒をと叫んでいるクリス、そしてバッグで顔を隠しながら他人のふりをして歩き始めたルーカスに、興奮し過ぎて目が血走っているフルラがいるのが見えた。
これは早目に意識を無くした方が楽だと悟り、そのまま眠るようにシェアトの意識は無くなった。