第百九十二話 彼の護衛は強かった
目の前に立っている、薄汚い男は甲斐の反応を待っているようだ。
だが甲斐は笑いを納めず、男は挑戦的な目を向けている。
見たところ、まだまだ若い少女だが、こんなに危機感が無いのかを。
余裕がある訳ではあるまい、まだ現実感が湧かないのだろう。
「……こんにちは、なんか汚いおじさん!」
「んーんーんーんー。言うねえ、俺がこうしておチビちゃんをすぐに殺さないのはなんでか分かるか?あんたから殺意が感じられないからだよ。人殺したこと無いだろお、初めての戦場かなあ? ん? ん?」
にやにやとしている相手を前に、座った体制の甲斐は立ち上がる事も出来ない。
指の銃は性格に眉間を捉えている。
ケヴィンの安否は分からないが、汚い男がこれ見よがしに纏っているベストが全てを物語っているような気がしていた。
「懐かしいねぇ、俺はあんたの先輩だぜ。何驚いた顔をしてんだ? 『W.S.M.C』……元いた部隊だよ。糞みてぇな部隊だよなあ、やってることなんざ反政府軍と変わんねぇ。相手をいかに叩きのめすか!それだけだ」
「そう、ですかね。あたしからしたら悪役臭のぷんぷんしてる貴方こそ糞中の糞っぽいけど。もうウンコだよ、ウンコ」
「……チビちゃん、あんたをひっ捕らえようかと思ったけどやめだ。ここで死ね」
指先から強い光が放たれる瞬間、甲斐もありったけの力を込め、攻撃魔法を発動させた。
どうしても安定して出せるのは拳に力を溜めて、直接打ち込むという物理的な方法なのでそのまま拳を前に突き出す。
男の魔法とぶつかり合い、そして激しく光が散る。
だが、均衡が保たれたのは数秒だった。
すぐに甲斐の力が、押し負けた。
そのまま甲斐の手は押し戻される。
男の力が強いせいか、反動が大き過ぎた。
弾かれるようにして、肘から先があらぬ方向へ曲がった。
そのおかげで相手から撃ち込まれた弾丸の様な攻撃も、弾かれて建物へと軌道が逸れ、固い壁に穴を空けた。
即座に大きく開いた甲斐の脇脇に男の蹴りが入り込む。
ただの足蹴りではなく強化魔法が瞬時にかけられており、壁側から一気に道路へと投げ出される。
一応甲斐の身に着けている部隊の制服に対魔法がかけられているおかげか失速が早い。
だが路上に止まっていた錆びた車にしこたま体を打ち付けられた。
痛みで息が出来ない。
それでもまだ、この世界に来る前の頭痛よりはましに感じた。
「俺、どSな訳。『W.S.M.C』を志望したのも、相手をいくら殺したって罪に問われないしコンスタントに戦場に向けられるからだ。それにしても、アンタ弱いわあ。競り負けるってぇことは大して攻撃魔法練り込めてねぇなあ?よくこんなんで入隊出来たなあ、おい」
「……ケヴィーーーーーン! げっほげほぐえっうえええ……ピンチーーーーー!」
甲斐の必死の叫びも空へ消える。
もう一度叫ぼうにも、体が痛んで仕方ない。
声を出すという事がこんなに体のあちこちに負担がかかるとは知らなかった。
「ああ、アイツかあ? 先輩はお亡くなりになりました、アーメン。あーなんてカアイソ~なんだ! でも、大丈夫だ。……すぐに会えるぜ」
男の言葉を最後まで聞いたかは、覚えていない。
ただ、男の体に無数に鋭い刀のような刃が突き刺さっていくのを見ていた。
血は出ていなかった。
何かを思う前にこちらへ倒れ込んで来る男を避ける為に、痛む体を動かすのに必死だった。
最後まで笑っていた男の体からいつのまにか、刺さっていた刃は全て消え、大量の血が噴き出していく。
ケヴィンが来てくれたのかと、顔を上げるとシェアトが走り寄って来た。
「おい! おい! 大丈夫か!? ……右手が酷ぇな……。でも他はなんともねぇな!?」
ギャスパーといっただろうか。
顔色の悪い男がどこからかシェアトの真横に現れた。
それを伝える事も出来ぬ速さでシェアトの腕を捻り上げ、地面にねじ伏せた。
「……死ぬなとは言いましたが、負傷者に駆け寄れなんて誰が言いました? 彼女が大声を出したのは、君にも言ったように私から離れてしまった場合、非常事態に担当者を呼ぶように言ったのと同じです。そしてケヴィンは現れなかった。今の男が着ているベストはケヴィンの物でしょう。今回の作戦は敵の殲滅です、なので私は任務を遂行しました。ですが、それだけです、行きますよ」
シェアトからの返事を聞くまで離さないつもりらしい。
かなり強引な方向へシェアトの腕は捻られているが、顔を歪めながらも彼は吠えた。
「離せよっ……! カイが怪我してんだ! ほっとくのか!? それでも俺達の護衛かよ!?」
「……ならばあなた方は纏めて帰って下さい、面倒だ。ここで押し問答をする気は無いです。こうしている間にも味方は敵と対峙している。この音が聞こえないですか。一人の隊員が欠けるという事がどれ程大きい物なのか分からないと?」
「あの、あたし歩けますし付いて行きます。右腕がダメになったっぽいけど、付いて行くのは大丈夫なんで。……ダメっすか?」
そうでも言わないと、シェアトが今にもギャスパーに暴言を吐きかねなかったのだ。
一方でシェアトの上にいるギャスパーは、ケヴィンを失った事に対して動じていないように見える。
それどころかこの状況に流される事無く、周囲の気配に目と耳を使ってアンテナを張っているようだ。
その冷静さを見ているせいだろうか。
甲斐の頭の中には、自分を守ってくれていた彼が危機的状況をどうにか上手く逃げ延びているのではないかという、願いに近い思いが浮かんでいた。
もしかすると、横に転がっている男が着ているベストは昔この部隊にいたと言っていたし、ケヴィンではなくこの男の物なのではないだろうか。
そんな馬鹿げた考えを、誰も思いつかない最高のシナリオとして信じようとする自分がいかに冷静ではないかも頭の片隅では分かっているのに。
ギャスパーは苦しそうにしているシェアトをようやく解放すると、甲斐を立たせ、腕に触れた。
痛みは消え去り、腕は動きはしないものの先程より呼吸が楽になる。
「……痛みが無いのは今だけですよ、この魔法が効いている内に行きましょう」
舌打ちをしたシェアトの足を踏んで、打ち消すように返事をするとギャスパーは大きな魔方陣を作り出した。
二人が入るのを確認すると、次の場所へと移動をかけた。