第百八十七話 いつ謝ったか分かりましたか?
「……クロスちゃん? いる?」
甲斐は治癒室の個室を一つ一つ回って行くが、誰もいない。
休日なので当然と言えば当然なのだが、ここの担当教員の姿も見えない。
ここに来るほどの怪我ではなかったのだろうか。
全てを回り切り、諦めて退室しようとした時に向こうからドアが開いた。
甲斐の額が軽く扉にぶつかったが、相手もこちらに人がいるとは思わなかったらしく慌てた様子で顔だけを出してきた。
「ご、ごめんなさい……」
口が腫れているからか籠ったような声が聞こえた。
そして甲斐の姿を見るとさっと顔を引っ込めて、引き返してしまう。
逃す訳にいかないので走り寄るが、追いついても早歩きですぐに引き離されてしまう。
「……クロスちゃん、足早いねえ。いつもこんなに早かった?」
しかし、隣には誰もいないかのように前だけを見て彼は進んで行く。
引き止めなくてはと前に回り込むも、綺麗にかわされてしまい、また早歩きで抜かれてしまった。
走って再び追いつくが、向こうも最早、早歩きではなく小走りに変わった。
「ちょっと、待ちなって! 待ってって! 足の長さが違うんだから! おいコラ! とまっ……止まれっつってんだろ」
スライディングをして足をかけて来た甲斐を避けきれずにバランスを崩したが、両手を付いて転倒は避けたようだ。
上がった息を整える間も無く、クロスが立ち上がりかけたので腕を掴んで物理的に止める。
「……重いです、鉛かなんかで出来てるんですか」
「やっと喋ったー! なんで逃げるの、草食動物か貴様」
右頬には青紫の跡が出始めていた。
治癒室に来たという事は治療を頼める星組の友人が見当たらなかったのだろうか。
ビスタニア達に預けて来たのか龍の姿も無かった。
「……言葉で勝てなきゃ暴力ですか。最上級学年なのに最低ですね」
「……っ……ごめん、ね!」
危うく反論しかけたが、全て飲み下した。
数々の言葉の代わりに声を張って謝ると、廊下一体に響き渡った。
両手で耳を押さえるも、彼の左右の眉はくっつきそうなほど近付いている。
「声量を考えて下さい。そういう所が迷惑なんです。それに出しゃばりです。お節介です。なんなんですか、兄弟間とはいえ他人の家庭の事情に首を突っ込まないで下さいよ。なんにも分かってないくせに」
「あーあー悪うございましたー!」
唇を尖らせ、反論はしないが誠意の無い態度を取る甲斐に、クロスはレベルを下げる事にした。
「うわーほっぺがいったいなあ。誰のせいかなあ」
「すんませんっしたあ!」
今度はしっかりと頭を下げた。
ふん、と鼻を鳴らしてついでに普段の鬱憤もぶつけておく。
「それにいつもいつも貴女の所のテーブルうるさいんですよ。もっと周りの事考えて下さい。馬鹿な会話を一日に三回も強制リスニングですよ。不愉快です」
「……っ……! このっ……めっ、面目ない」
言い返そうとする度、腫れ上がった右頬をさすられ謝るしかなかった。
ほぼ途中から言いがかりのような内容になっていたがそれでも甲斐は謝り続けた。
「はあ、まあほんの何ミクロンとかのレベルですけど気が晴れたような気もしなくもないです」
「……あたしこの場で死んだら死因はなんだろう……。謝り死に? いや、苛立ち死に?」
「じゃあ、僕は治癒室へ行きますから邪魔しないで下さい。さようなら」
「えっ!? ちょっと待って! クロスちゃんもあたしにもさ、何か言う事ない!?」
立ち上がると首を傾げ、分からないというジェスチャーをした。
そして治癒室へ向かおうとする。
クロスの足にしがみ付いてうるさく喚き続けるとようやく足が止まった。
まさか本当に悪い事を言ったと思ってないのではないかと、甲斐の心に不安が宿る。
「あの、僕、もう、言いました。手、離してください」
「それはあたしへの罵詈雑言でしょ!? 待てい! あたしはあんな事をねだってんじゃないわ! あーやーまーれー! 謝ったらそれでチャラにしてやるし、本心じゃないって思ってやる!」
深く溜息をつくと、しゃがみこんで甲斐の目を見つめながら優しい力で甲斐の手を足から離す。
そして耳打ちをするとまた歩き出したが、甲斐は自分の記憶と戦っていた。
「は……? 『だからもう、謝りましたよ』って……いつ……?」