第百八十五話 殴られた、理由
「春って、いろんな植物が芽生えて素敵な季節ですよね! そうだ、天気も良い事ですし散歩でもしませんか!? あっ……もしも予定が無かったら、なんですけど」
そう言ってビスタニアを誘っているのは、可愛らしい後輩である。
無論、女子生徒ではないのだが。
「あ、ああ……。そうだな、たまには日に当たるのも悪くない。ウィンダム、一緒に……」
いじらしいクロスの言葉に、ビスタニアは照れつつも頷いた。
その中で休日の午後のひと時に、小難しい本を読んでいるはずのウィンダムが随分とにこやかに笑っている。
「何が可笑しいんだ……!? ウィンダム!?」
「いや、ちょっと微笑ましいページだったんだ。 ……それはそうと人の成長というのは素晴らしいものだね、ビスタニア!」
「ほう? 『奇策成功の術策四百選』に微笑ましいページがあったのか? どこだ? 見せてみろ」
「ははっ、あはは! もう、先輩たち、ははっ、面白すぎですよ」
クロスのスラックスの裾を握っている龍も彼に合わせて、笑うような声を真似している。
その中で一つ、余計な笑い声が混ざり込んだ。
「あはは! ホントおかし~よね、ね~クロス……あっ? ちょちょちょ! 覚えたての魔法を使うな! 危なっ……もう……危ないでしょう!? あたし以外に向けなさい!」
「……いや、普通に考えて貴女以外に向ける理由が無いでしょう。……本当、どこから湧くんですかね…」
「人を不思議の泉みたいに言うなよ。あれ、そういえばお祝いぐらい言ってやったの?」
ビスタニアは甲斐の湧き出方には慣れているので、驚きもしない。
隣に座っているウィンダムは、長引きそうだと判断したのかまた途中の本を開き始めた。
「……えっ、兄が退学になるんですか? 知らなかった、心を込めてお祝いをすぐに言ってきますね! いやあ、良い日だ!」
「いつそんな話があたしとクロスちゃんの間で出たよ? ちーがーうーよ! 推薦の話!」
表情は変わらないが、彼を纏う雰囲気が緊張感のあるものになった。
そして一度甲斐を睨むように見ると、鼻で笑った。
「そうですね、まだお祝いしてなかったですしする気もありませんでしたけど……。でも、気が変わりました。言ってやろうかな。自分から死に走り込んでいくなんて、中々兄さんも賢いじゃないか。長生きなんて出来ないでしょうし、死んだとしても殉職ですか。迷惑かけて野垂れ死なれるよりはましですしね」
影が、自分の視界にかかったと思った。
次の瞬間には体が床に打ちつけられる痛みと、口の中の熱さとしたで感じる鉄の味が広がった。
口を開けてみるも、右頬から顎にかけて口の内側が裂けたのか激痛が走った。
見下ろしている甲斐は肩で息をしながら、震えている拳を押さえているが真っ赤に腫れていた。
どうやらこの女は、魔法も使わずに素手で殴りつけてきたようだ。
これが本当にこんなに小さい女の力なのか、疑わしい。
父よりも強いのではないだろうか。
「……そんな事言ったら、ダメでしょ」
「おい……」
止めに入ろうとしたビスタニアを、顔を上げないまま腕で制したのはウィンダムだった。
クロスが立ち上がる前に、甲斐は誰の事も見ずに走って行ってしまった。