第百七十四話 彼がこの学校に入った理由
馬鹿な身内のせいで、結局授業には間に合いそうもなかった。
こんなに荒れた気持ちになったのは、ちょうど数年前に兄がこの学校への入学を家族へ相談も無く決めた時だった。
あいつがいると、碌な事が無い。
それはお互いに思っているのだろうが、人の気持ちを考えようともしない兄の傍若無人さにはほとほと愛想が尽きた。
教室へ向かおうとしていたが、やはり止めることにした。
廊下の窓ガラスに映った自分の顔はとても酷い顔をしていたからだ。
子供が泣き出す寸前の様な顔をして、友人の元になど行けるはずはなかった。
「……はぁ……。なんであいつが、兄なんだ……」
「ほんとほんと。あたしもそう思うもん。 DNA検査してみたら? 案外他人かもよ? でもするまでも無く、君達よく見ると似てるからねえ。一人っ子のあたしからしたら羨ましいけど、シェアトは要らないなあ」
一人でクロスがため息をつきながら声を出した時、後ろから声がかかった。
振り返れば甲斐がニヤニヤしながら機嫌良さそうに笑っている。
「……三年は、自習時間じゃないんですか……? ああ、デジャブだ……。しかも嫌な奴と顔を合わせるのも同じだ……」
後ろから突然声を掛けられ、クロスは体の力が抜けそうになった。
独り言すらこの広い校内で言えないなんて、一体どうなっているのか。
「自習時間だけど、それはこれからって事にしてる。今は息抜きタイム。シェアトに会った? 聞いた?」
無神経に今一番触れて欲しくない話題をわざわざ選ぶ辺り、馬鹿同士仲が良いのも納得だ。
この女と馬鹿な兄は、先生方からの連絡事項を一体どう捉えているのだろうか。
こんな人間がこの先増えてしまったらと思うと、悪寒がする。
正にこの世は無法地帯になってしまうではないか。
「……聞きましたよ、貴女はもう少しリスニング能力を鍛えた方が良いです。『W.S.M.C』でした。よりによってどうして危険な仕事を選ぶのか理解に苦しみます」
「耳よりも頭の問題かと思ってたよ。え? 理解出来ないなら何で聞かなかったの? なんでこのダブリューなんだかなのって言えば良かったじゃん」
「……きっと聞いたって、関係無いとかそういう下らない発言しか返って来ないですし。別にどうだっていいんです。兄は兄で好きなように生きて死んでいくんでしょう。僕には関係ありませんから」
「うは! 聞きもしなかった癖に、なんでシェアトの返事を決めるの。どうだっていいなら、何でそんな顔してんの? 恋する乙女みたいな顔してる……あっ!?」
とうとうクロスは甲斐の頭を鷲掴みにしていた。
「……秘密に気付いちゃった! みたいなその顔止めないと、引き抜きますよ」
「引き抜く? か、髪を!? 髪は女の命やさかい! 堪忍しておくれええええ」
「いえ、首をですけど?」
「命そのものじゃねぇか。ダメに決まってんだろ。自習時間にサボるよりも罪重いわ!」
一応サボっている、という自覚はあるようだ。
この女の言っている事は、半分だけ合っている。
何故聞かなかった?
それは自分でも答えは分からない。
感情的にならずに話せていたら、兄はべらべらと志望した理由を話してくれていたのだろうか。
そして、この女の間違っている点。
どうだっていいというのが嘘だと思っている事だ。
それは、本当だ。
自分からしたら単細胞で、思ったら深く考えずに行動する兄の事は、正直本当の本当にどうだっていいのだ。
しかし、家族は。
父や母はそうはいかないのだ。
この魔法学校に入る時だってそうだ。
両親は兄の前では喜んではいたが、一年に一度しか帰って来ないという今後の不安と寂しさによって、二人が落ち込んでいたのを知らないのだ。
帰省した兄をいつものように嬉しそうに出迎える両親が、どれだけその日を数か月も前から心待ちにしていたか知らないのだ。
何の連絡も寄越さずに今年、帰省しなかったのを両親が何かあったのではとうろたえていたのも知らないのだ。
どこまでも兄は勝手で、自分一人で生きているかのように振る舞っている。
どうしてもそれが、許せなかった。
誰の目も届かない場所に行かせると、心配している人がいる事を忘れてしまうのだからいい気なものだ。
だから、自分がかなりの努力をして兄と同じ学校に入るのを目指した。
それは、全て家族の為だ。
これ以上勝手な行動をさせるわけにはいかないのだ。
だが、兄はやはり何も分かってはいなかった。
危険な特殊部隊に推薦を貰えそうだと嬉しそうに話す彼に、心底腹が立った。
とうとう命の保証の無い場所へ一人で赴こうとしている。
悲しむ両親の顔が目に浮かんだが、きっとまた兄の邪魔をすまいと笑顔を作り応援するのだろう。
そんな事を許す訳にはいかない。絶対にだ。
馬鹿だからこそ、目が離せないのだ。
今、兄を止められるのは、自分だけなのだから。
「……僕は、兄が嫌いです。そして、貴女も。多分、どこか兄と似ているからなんでしょうね」
そう言ったクロスは、悲しそうに笑っている。
この笑顔は無意識の物なのだろうか。
言い返す間もなく、彼は甲斐を置いて歩き始めてしまった。