第百五十三話 一番最初に出会ったひと
誰もいない知書室は、無音に近い。
まるで本棚の合間に誰かが潜んでいるような錯覚も拭えず、やはり夜中の怖さは健在だった。
ルーカスがいてくれて本当に良かったというのは、知識の面だけでなく、人と一緒にいるという心強さも大きい。
向かい合って座り、四本のリングを回しているルーカスに暇そうな甲斐は話しかけ始めた。
ルーカスはそれに嫌な顔一つせずに、手元から目を離さないまま答える。
「ルーカス、ここに夜中一人で来るの怖くない? 静かすぎるし……」
「……驚いた、カイにも一応恐怖心はあるんだね……? てっきり今まで恐怖とかそういった類の物は生まれる前に捨てて来たのかと思ってたよ…」
「どうしてルーカスの中であたしはそんなストイックな事に? あたしだって普通にお化けとか信じてますー。見たことないけどー」
陽のある内は程良い日差しを取り込む大きな窓は、真っ暗な外をスクリーンにして甲斐の顔と真剣なルーカスを反射して映している。
目蓋を閉じて時間を確認すると、一時半を過ぎた所だった。
室温で凍っていた髪の毛が溶け始め、甲斐のジャケットに湿り気を残していく。
伝わって来る冷たさに耐えられず、ジャケットを脱いでワイシャツのみになった。
その途端ルーカスが一瞬顔を上げ、慌てた様子でまた目線を手元に戻した。
「カイ、上着を着た方が良いよ……。そんなに暑くもないしさ」
「いや、暑いんじゃなんだ。髪の毛が濡れてるから背中がべちょっとしてきて気持悪いんだよね。乾かすついでにさ」
「……じゃあ、これ着てていいから」
「いいよ、濡れちゃうし。結構不愉快なもんだよ、背中濡れてると寒くなるし」
上着を渡そうとして脱ぎ始めたルーカスを止める。
何故こんなに彼は上着を着ろと言うのか、特に気にしてはいなかった。
これに似たやりとりを、ここに来て最初にしたのを思い出す。
あの時に比べて、彼の背は少し伸びている。
すると指輪を机に置いて、甲斐の後ろに回り、濡れた髪の毛を手に取った。
「な、なに?普通にびっくりしたんだけど。 触ってもいいけど引き抜かないでね」
「抜かないよ……、 君の髪の毛引き抜いてもエルガ位しか得をしないでしょ。じっとして、乾かしてあげるから」
髪に触れているルーカスの手から、直接触れられていない首元にも熱を感じる。
暖かな熱を帯びた風を小さく手の平に起こして操っているようだ。
まるで簡易的なドライヤーのようだ。
髪の毛を順に手に取りながら、乾かしていく内にシャンプーの匂いが付近に香る。
「器用だねぇ……。ルーカスって将来なりたいのって医者じゃないんだっけ? 何を目指してんの?」
「……僕が目指してるのは『光無き神の子』っていう医療魔法団体なんだ。ここに入るには高い技術と速度が求められるから、難しいかもしれないけどね」
「ヒカリナキ……? そうなんだ、でもルーカスもなりたいものが決まってるんだね。そっかあ……来年は卒業だもんね」
「春になる前に先生方と面談があるから、そこで決めてもいいと思うよ。カイがこの学校から出たいのであれば、ちゃんと話した方がいい。戻れるまでの時間をどう使いたいのかも、伝えないと。……はい、できましたよ。お客様」
触ってみると、まだほのかに熱が残っているがしっかりと乾いている。
座ったままルーカスを見上げると、わざとらしくお辞儀をして席についた。
「さて、次はこの上着をどうぞ。カイのジャケットが乾くまで着てていいよ」
「……なんでそんなに着せたがるの? 可愛い女の子が厚着してると興奮を覚えるとかじゃないよね……?」
「露出狂の頭角が現れている人に言われたくないよ……。違うならシャツの下には何か着た方が良いと僕は思うけど……」
言われてみれば、慌てていてシャツの下にキャミソールを着るのを忘れていた。
完全に透けて見えている、強いピンク色の下着。
ようやくその真意に気が付き、せめてもの償いとして両手で胸を隠しながら普段より高い声を出す。
「いやーん、ルーカスのエッチー。ミナイデクダサイー」
「えっ? 見た所で僕に一体何のメリットがあるの?」
頬杖をつきながらとてもにこやかに返され、大人しくジャケットを羽織ると彼は再び指輪の単語合わせに戻った。
こうして二人になるのは、いつぶりだろう。
来年にはこの学校からいつものメンバーはいなくなってしまうという現実が、とても辛く感じてしまうのは自分が子供なのだろうか。