第百四十一話 赤と茶色の昔話
急に現れ、そして通り過ぎていく噂の張本人に、彼女の友人達は皆ばつが悪そうな顔をした。
だがそれもすぐに他人の不幸を楽しむような、いわゆる修羅場を目撃している観客のような笑いに変わったのを、見た。
その中で一人、あからさまにまずいという顔をして追い掛けて来たのはクリスだった。
普段から誰の顔も必要以上に見ようとはしていなかったし、女子生徒の顔など皆同じように見えていたが、果たしていつも隣で笑っていたはずの彼女はこんなにも醜かっただろうか。
名前を呼ぶ金切り声も耳障りに聞こえる。
違う。
それは全て自分を守ろうとして、彼女を醜いと思い込もうとしただけだ。
夢の中でもう一つの心が、荒れ始めている。
あの時、こんなにも冷静さからは程遠い感情に包まれていたのか。
恥ずかしいほど、幼稚なこの気持ちは誰にも言う事なんて出来ないだろう。
しかし、抱え込むには当時の自分にはこの問題は大きすぎた。
振り返ってもやらないせいで、彼女は外まで追いかけて来てしまった。
そして、心の何処かではこうなる事を期待していたんだ。
「ビスタ二ア……! 聞いて、お願い……! こっちを見てよ……!」
「十分聞いた。だから次はこちらの話を聞いて欲しい。すまないな、君に恋人がいたなんて知らなかったんだ。そんな話、しなかったからな」
「どうして謝るの……? ビスタ二ア、お願い私の話も聞いて欲しいの……。誤解なのよ……! 本当に―――」
「何を言ってる?俺が謝ったのは、君にじゃない。君の恋人へだ。いくら俺達の間に何かがある訳でもないとはいえ、これまでの俺達の関係は君の恋人に対して不誠実だ。それを自覚できない君の代わりに俺が詫びている」
ある程度攻撃をしたら、相手の様子を観察する。
傷跡とその痛みを感じているか、どういう反応をしているのか。
これは父の癖だったはずだが、今正にこの視界と沈黙はその癖だ。
嫌な所ばかり、似てしまうのだろうか。
まだ収まろうとはしないこの気持ちは、更に彼女に爪痕を付けていく。
どうして、目の前で瞳に涙を溜めている彼女をそっとしておいてやれなかったのだろう。
「貴方の言う事は確かに正しいわ……。でもね、さっきの事をちゃんと説明させてほしいの、お願い……。時間を私にちょうだい……」
「そして、俺は君のようなずるく汚い女は嫌いだ。君の相手にも心底同情する。しかし、その化粧のように女は表面を取り繕うのは上手いもんだな。今日はいい勉強になったし、本当に良い締めくくりが出来た。これ以上、この先の俺の時間を無駄にする事が無くなるんだからな」
初めてみる笑顔以外の彼女は、何故よりによって泣き顔なのだろうか。
他にも知らない彼女など、沢山あるはずなのに。
今こうして思い返してみると、涙を流す寸前のクリスの顔が、食堂で見た甲斐の表情に似ていたのだ。
あの女はクリスと違い、こうしてさめざめと泣いたりはしないだろうが。
背を向けて歩き出して景色が滲み、ようやく目が覚めた。
体の汗が酷く、枕は濡れている。
身を起こして荒々しくシャツを脱ぐと、部屋の温度が体を冷やす。
あれから、彼女と二度と話すことはもう無いと思っていた。
何度か修復をしようとする彼女に気が付いていたが、徹底して拒絶してきたのは自分だった。
こんなにも人を傷けたのは、これ以上傷つけられるのを恐れ、そうなる前にと刃を無防備な相手に突き刺し続けただけだった。
二度と起き上がって来ないように、必死に願いを込めながら。
やがて彼女も話しかけてくる事も無くなったと思っていたが、去年、東館の前で夜に会った時。
久しぶりに声をかけてきた。
あの時も、俺は向き合わなかった。
彼女を見ないようにして通り過ぎたが、あの後ろで彼女は一体どんな顔をしていたのだろうか。
想像もしないようにしてきたのは、弱さからだ。
甲斐のおかげで、彼女とも最近は本当にたまにだが話すようにもなった。
しかし、まだ謝ることは出来ていないのだ。
子供が癇癪を起こしたようなあの時の自分を、彼女は許してくれるだろうか。
謝る事はきっと自己満足なのだろうか。
許されたいなんて、そんな勝手な希望は捨てていくしかない。
ああ、まだ朝は遠いようだ。