第百三十九話 追憶・去年の君は
いつもより遅くベッドに入ってみたが寝つきが悪く、とうとうビスタニアは瞳を開けた。
カーテンを閉めずにいるので、窓の外は月明かりを白い雪がよく跳ね返しているのか明るく見えた。
寝返りを打ち、どうにか寝ようとしてみたが父に言われた事が嫌でも思い返されてしまう。
父の棘のある言葉には慣れ切ったはずだ。
痛むような柔らかな心などとうに失ったと思っていたのに。
こんなにも気持ちを掻き乱しているのは、やはり『異世界人』と称された彼女の件だろう。
何故食堂で、あんな事を口走ってしまったのかは分からない。
本当であれば、内密に依頼されたのだからあのようにわざわざ本人へ確かめるような事はすべきではなかった。
あいつの見せた、あの表情は紛れも無く事実だと言っているのと同じだ。
変な所まで正直なのだから、心底馬鹿だと思う。
もしかしたら自分はあの時、彼女に『何を言っているの』とでも言って、背中を叩き、笑い飛ばしてもらいたかったのかもしれない。
どうしたって、もう昨日までの日常に戻れるはずはなかった。
知ってしまった事実は、真実だった。
自分に出来る事は父の言う通り、彼女が変な気を起こさないかどうかを見張る事だ。
もう今までのような関係は成り立つはずがない。
監視されているという事自体知る由も無い彼女と、何もかも全てを知った上で傍にいるなどまともな人間関係ではない。
しかし、どうしてこんなにも抵抗を感じているのか。
きっと、今までの自分であれば父と同じように悪は悪だと明確な意思と嫌悪感を盾に動けたはずだ。
今回の協力要請だって嬉々として請け負ったに違いない。
「……そうか、俺は案外あいつを気に入っていたんだな」
誰も聞くことの出来ないこの部屋で、誰に宛てたものでもない言葉は宙を彷徨った。
監視し、何か不審な動きがあれば校長を通して機関へ即座に連絡をする。
それは、甲斐をこの学校から追い出す手助けをするという事になる。
国の、いや、世界の安全を守る父の仕事、それに憧れ誇りを持って目指し、進んできた。
迷いなど無かったはずだ。
重くなってきた思考の波の中で、懐かしい声が聞こえて来る。
そして光の中で栗色の髪の毛を揺らし、振り返ろうとしている人物がいる。
酷く嫌な夢の中に、ビスタニアは落ちていこうとしていた。
抗う事も出来ぬまま、静かに眠りに入っていく。
鮮明な視界の中で、どこか見慣れた顔が皆幼い。
一人立ち尽くしていたビスタニアの頬に花びらが張り付いた。
ああ、そうだ。
これは去年、入学した年だ。
「ビスタニア! 何よ、ぼーっとして。大丈夫?」
いつの間にか横に立っていて、笑いかけるのはクリスだ。
化粧も今より薄く、髪も少しばかり短いだろうか。
何が楽しいのか、いつ見ても笑っている彼女は眩しかった。
ああ、嫌な夢だ。
これはいつ、目が覚めるのだろう。
未熟な自分と、そのせいで何一つ、分からないままだった彼女の気持ちをまたこうして見せられるのかと思うと吐き気がする。
しかし、そんな拒絶的な意思は通らずに、自分はクリスに笑いかけてしまう。
早く目を覚まさなければ、逃げなければと思うがそれと反比例するかのように、どんどん体の感覚は消えて行った。
負った傷痕を何度も見て何が変わるというのか。
まだ自分はこんなにも過去に囚われているのだろうか。
罪の意識も忘れた訳では無い。
どれほど恨まれようと構わないのに、最近は彼女も自分もようやく船を漕ぎ出したように思えていた。
鉄のオールを必死に動かし、何度掻き出してもどこからか水が入り込む船で、どこへ行けるというのだろう。
いっそ恨んでくれていたらと思ってしまう。
君が笑いかける度、大丈夫だとでも言いたげな瞳を向ける度にそれは呪縛のように蝕んでくる。
潜在意識が夢を見せているのだろうか。
二人が歩幅を合わせて並んで歩きだした足は止められそうになかった。