第百二十四話 ブローチを、君に
ロビーに戻る頃にはいい時間になっていた。
シェアトはエルガの背中で寝息を立て続けており、起こしてはまずいだろうという事で先に自室へと送られた。
それはせっかく寝ているのに、という意味ではなく、再びほろ酔いでいつもよりも横暴さにキレのある甲斐をこれ以上盛り上げてはいけないという予防線だ。
ビスタニアは若干赤くなった目が閉じかける度に空を睨みつける事で、どうにか起きている状態だった。
それに気が付いたウィンダムは甲斐とエルガに声を掛ける。
「さて、僕たちはこの辺でそろそろ失礼するよ。夜更かしに慣れていない僕が倒れてビスタニアに迷惑を掛けてもいけないからね。今夜はとても素晴らしい夜だった。絶対に忘れないよ、いい思い出だ。この度はお招き頂きましてありがとうございました、小さなお姫様」
「なんか、色々すまんね。来年も……」
来年、があるのか。
鈍く痺れた頭が話す邪魔をする。
自分はここにいるだろうか。
普段ならこんな風に思わないはずなのに、流石に飲み過ぎているのだろうか。
「おっと、そうだよカイ! その前にすぐニューイヤーイベントさ! きっとクリスマスでこれだからもっと、豪華なんだろうね! 残り一週間も無いのだから、ちゃんとそれまでに体力を付けておきたまえ!」
ぱっと視界に明るい瞳が入り込んだ。
「夜中のミカイルはかなりどぎついな……。 朝から油ものを食わされている気分だ……。まあそれまで俺達は課題と共に、いい加減勉強しないといけないからな。最近に比べると顔を合わせる機会は減るだろう、邪魔するなよ」
「課題…… あ、やべっ。お二人さん終わったらこのあたしがチェックしてあげるからしばらく貸し……ぐああこいつら月組だああ。味方は文読んでると凍り付くようなでくのぼうだしぎゃあああ」
醜い生き物を捻り潰したような声で甲斐はその場に崩れ落ちた。
「大丈夫さ、君にはエルガ君がいるじゃないか! じゃあ、課題頑張ってね。いい夢を」
「そうさ、 君には僕が! 僕には君がいるんだよ! この二人は無敵だね!」
二人が階段を上がって行くと、急にロビー内が静かになってしまった。
ある程度の片付けはウィンダムがしてくれたので、特にやることもない。
思えばエルガと二人になるのは初めてな気もする。
とりあえず席に座り、まだ入っているボトルをラッパ飲みで空にしていると向かいにエルガが座った。
頬杖を付いてこちらを笑ってみているのはいいが、前のめりになっているのでかなり顔が近い。
「……楽しそうだね、飲む?」
「いや、カイのジャケットに何か付いてるから気になってね」
「嘘、なんだろう。火が点いてるとかじゃないならあんまり構わないんだけど」
一応軽く見てみたが、見つけられない。
するとエルガの手が伸び、ジャケットの左の返り襟の部分を細い指が掴んだ。
邪魔にならないよう首を反対に傾げて、されるがままにしていると汚れを取っているのかちまちまとした指の動きが分かる。
「はい、ますます綺麗になった」
指を離す前に、上目遣いでそう言うと身を引いた。
普段彼はシェアトの横にいる事が多いので、華奢に見えていたが女子生徒よりは少しばかり肩幅もしっかりとしているようだ。
はっとして襟元を見ると、八枚の花びらが複雑に重なっている、まるで小さな風ぐるまのような花のピンブローチが付けられていた。
角度によって煌めく色が変化するが、ベースは銀色のようだ。
中央には綺麗な赤い石が嵌められている。
「それ、元は本物の花だよ。かなり小さく加工したけど、元は真っ白でとても大きく美しい……『サカサソウ』っていうんだ」
「……あ……りがとう、でいいのかな。あたし本当に何も用意してなくて本当、さっきから自分の無能さを味わってるんだけど……」
不安そうにエルガを見ると、やはり優しく笑っている。
「気に入ってくれたかい? その一言が聞けたら十分なんだけど」
「凄く、可愛い! 気に入った! ありがとう! ずっと付けとく! よっ器用!ロン毛!」
次々に言葉を返してくる甲斐はどこか必死で、他に何か言えることは無いかと思いつく度に褒めちぎった。
向かいに座る彼はとても嬉しそうに、しかし止めずにその褒め言葉の羅列を聞いていた。
しかし少しでも甲斐が言葉に詰まると、あたかもとても悲しいですと言わんばかりの顔をするので焦ってまた褒めだすというやり取りはかなり長く続いていた。
甲斐の襟元で、激しい動きに合わせてサカサソウは一度だけ回った。