第九十九話 母・登場
拍子抜けするほど、すぐに内臓を持ち上げられ続けている感覚は無くなった。
膝に触れている感触は冷たいアスファルトだろうか。
手のひらが触れているのは痛みを感じる程の冷たさ。
目を開けると、どうやら歩道の上に座り込んでいるようだ。
立ち上がると眩暈に似たものを感じる。
若干スカートが濡れてしまっているのを太ももに触れる不愉快さで知った。
強い風が頬に雪を当て散々冷やされた後、コートに付いているフードを思い出して被ると音の聞こえが悪くなった。
視界が狭くなり、周囲を見渡すにも大袈裟に体を動かさなくてはならない。
町並みは、前の世界とほぼ同じだった。
違う所と言えば街灯には支柱が無く、明かりの部分だけが空高く浮いており、一つ一つが小さく見えるがかなり明るい。
魔法が使われているのだろうか。
「……大掛かりな間違い探しみたい。……はぁ、ギア先生みたいな一見大人しめな人に限ってああいう横暴するんだもんなぁ。 いつか女子生徒への悪戯とかで逮捕されそう」
あの出来事は、何がなんだか分からないままだが甲斐の中ではルーカスの溜め込んでいたギアへの鬱憤があの場で爆発したのだろうと結論に至った。
更にギアの魔法が下手で、クリスとフルラを吹っ飛ばしてしまったのかもしれないという、謎の説得力を持った理論で解決させてしまっている。
少し歩いてみて分かったが、ここはどうやら元の世界の甲斐の家の付近のようだ。
しかし、何処に向かえばいいのかも分からない。
所持金だって持ち合わせていないので、温かい物も買えない。
「……どうせ術者は燃えないし、全身に炎を纏ってみようかな。ちょっと暖かいんだよな……自分の炎でも」
何も知らない通行人がその姿を見たら卒倒してしまいかねない。
魔法自体、通常の学校では学ばないそうなので使えない人が多いというのを以前に聞いたが、そんな普通の人々からすれば只の平然と歩く火だるまである。
この気温の中で水をかけられでもしたら、相手を火だるまにしてしまいそうだ。
諦めて自分の家の方面へ歩いて行く。
前の世界ではお隣さんは優しそうな奥さんが毎朝庭の花に水をやっていたが、それはこちらでも一緒のようだ。
冬の夜なので、やはり植物で青々としているのは松だけだ。
見慣れたガーデニング好きのお隣さんの庭を見ながら横切ると、横切った場所から花が次々と咲き始め、それはもう色とりどりな庭へと変わってしまった。
「普通に困った! 何これどうしよう! あたし春女!? ちょっ、今冬だよ! ええ~……?」
一人で塀から顔を出したまま慌てていると、お隣さんの家のカーテンが開いてしまった。
窓を開けてこちらの様子を伺っているのは、カイの知っているお隣の奥さんの姿そのものだった。
「……あら、カイちゃん?どうしたのぉ、こんな遅くに~?」
「こっ、こんばんは! いやあのお庭のお花が急に満開で……! あ、あたしの心も満開! なんちゃって! すいません、死にます!」
寝巻き姿の奥さんは、顔に手を当てて首を傾げると笑い出した。
「もう、本当に相変わらず面白いわね~! あはっは、お花見てくれてたのね、ははっは! ごめんなさい、誰かと思って。久しぶりね、戻ってきたの。お母さんも喜ぶわよ」
「あ、はぁ……。ちょっと笑いすぎじゃないですか、普段の生活に笑いが足りてないんじゃ……?」
一通り笑うと、奥さんはおやすみなさいと言って家に戻ってしまった。
その話し声が聞こえてしまったのか、甲斐の家の玄関が開いた。
そして顔を少しだけ出しているのは、数ヶ月ぶりに見る母、亜矢の姿だった。
セミロングの暗い茶色の髪の毛、すっぴんだと気が弱そうに見えるところまで、何もかもが同じだ。
お隣さん、母と二人共が判別できる、自分が知っている姿だという事は。
お隣さんが自分の事を知っていたという事は。
フードを深く被り直して、顔が見えないように背ける。
このままではパニックになってしまう。
亜矢がこちらに気付き、覗き込もうとしてくる。
背を向けて反対へと歩き出したが、同じ速度で付いてくる。
そして前に回りこまれたのと同時に顔を真下に向けた。
だが、即座に亜矢がヤンキー座りをしてこちらを見上げた。
「……あんた、何してんの?」
「これがあたしじゃなかったら事案だよ……」
「あんた以外にいないでしょ、こんなチビ。げっ、ちょっとコスプレ? や~ね、お楽しみ中だったわけぇ? やめなさいよ、こんな近所で!」
口調も、話し方もおぼろげな記憶だが確かに同じだ。
なんとなく、顔は見ている内にそうだこんな感じだったと記憶に確信が持てるが口調や表情の動き方となるとよく分からない。
どうやらコートの端からはみ出ている赤チェックのプリーツスカートを見て、亜矢は何か勘違いをしているようだった。