蝉の声が、聞こえる
キッチンに鰹節を削る音が響く。しばらくして、鍋の中のお湯がわずかに音をたてる。
ころあいを見計らって、削りたての鰹節を入れ、出汁をとる。
毎日繰り返される作業を、まだ三十代には入っていないであろう女は何の感慨も抱かずにこなしていた。
「……よし」
出汁の出来具合を確認して、次の作業へととりかかる。
あまり器用ではない彼女は、夫が提示する条件を満たす夕食を作り上げるには時間をかけるほかはない。
淡々と、下拵えをこなしていく。
調理道具が次々とシンクへたまっていく。
しんと、静まりかえっていたはずの部屋に、突如騒音が飛び込んだ。
――蝉の、声。
時間はずれのそれを耳にしたとたん、彼女は手を止めた。
コンロの火を消し、申し訳程度に使用済みの調理器具に水をかける。エプロンをはずし、自室へと足早に進む。
一つだけ持っている自分のスーツケースに、無造作に衣類をつめこんでいく。
そして、あまりに数が少なすぎて、あっという間に終わってしまったことに苦笑した。
指差し確認をしながら、貴重品すら放り込むようにケースへと収納する。
「よし」
そんなのんきな一言を残して、彼女は姿を消した。
完成しても夫の口には運ばれなかったであろう、中途半端に調理された料理たちを残して。
「おいしー」
彼女は縁側で行儀悪くスイカを頬張りながら、思わず声をもらした。
こんな風に食べ物をおいしい、と実感することなど随分と久しぶりだったと、自分で出した声に驚く。
思えば、丁寧だけれども、自分の作った食事は味気なかった、と。
「おまえ、いいのかよ」
彼女の年下の従弟が同じようにスイカを口にしながら、彼女に問いかける。
彼が、少しだけ年上の彼女と会うのは、彼女の結婚式以来のことだ。五年ほど前の式は、随分と盛大で、けれども新婦側の彼女をややないがしろにしていたことを彼は覚えている。
新郎が、随分と名家の出身なのだと、後になって伯母から謝罪と説明があった。
それ以来、彼女の実家には彼女の姿はなく、母方の祖父、今彼女たちが居座っている家の持ち主が亡くなったときすら、彼女は弔問に訪れなかった。
それもこれも、彼女が変わってしまったせいだと、恨めしく思っていた。
格上の家へ嫁ぎ、彼女は自分たちのことなど忘れてしまったのだと。
だが、突然現れた彼女を目にし、その認識を改めざるを得なかった。
「うん、いいの」
彼女は何も変わっていなかった。
優しくて、のんびりとした、彼女は彼女のままで。
ひどく痩せた、その体躯をのぞけば、の話ではあるが。
「食ってんのか?」
「食べてるよー、こっちきて太った」
自分の体のことをあまり知覚していない彼女は、半そでから無造作に出た腕を突き出す。
どこにも余分な肉などないそれは、色白で、いやいっそ青白いほどだ。
彼女が、幸せだったなどと推測できる情報はどこにも見当たらなかった。
「で、どうするよ?」
彼女がここにやってきたのは、本当に唐突な出来事だった。
スーツケース一つだけで、終電ぎりぎりの時間に彼女はここへとたどり着いた。
ぼんやりとした顔は表情がなく、けれどもどこかさっぱりとした顔をしていた。
何かがあった、などと口にしなくとも誰もがそれを認識するほどに。
家を継いだ彼女の叔父夫婦は、何も言わずに彼女を迎え入れた。
どうして、とも、なぜ、とも言わずに。
彼女にとって、それはとてもありがたいことだった。
「うーん、とりあえず職探しかな、やっぱ」
堅実な大学を出て、資格をもっている彼女ならば適当なところで決まるだろう。
どのみち、限界集落一歩手前のこの村からは出て行かなくてはならないだろうが。
この家の跡取りであるはずの彼にしてみても、ここへは大学の夏休みがやってきたから帰省しているだけで、いずれは職を求めるために出て行くのだろう。
それほど、ここには何もない。
「住む場所も決めないといけないし」
帰省してからこちら、一家の主婦である彼女の叔母と並んで台所に立つ姿を幾度も目撃されている。
最初のころは丁寧な手つきだけれどもどこか機械的で、義務的に動いていた彼女は、ここにきてようやく表情を朗らかなものへと変化させていった。
そして、今日の問いにつながる。
彼は学生の身分ではためらい、けれども聞きたかったことをぶつける。
「じゃあさ、やっぱり」
「うん、そうなると思う。準備もしてきたしね」
彼女は、ようやくにっこりと笑った。
「離婚、だと?」
「そうだけど」
三ヶ月ぶりに姿を現した彼女は、彼女の夫に想像外の言葉をぶつける。
いや、誰しも予想して、夫以外は全く予想はしていなかった言葉を。
「勝手に出て行って、次はそれか!」
激高して、机を乱暴に叩く姿を見上げる。
よくこうやって、全ての意見を閉じ込めていたのだと、思い出す。
もっとも、今回のそれは、意見の相違などといった生易しいものではないけれど。
「男か?男ができたんだろう?」
あせったような顔で、決め付ける。
余裕がある男だったはずだけど、今の彼には焦りしか見当たらない。
ぐるり、と部屋を見渡せばひどいありさまだった。
ゴミが散乱し、脱ぎ捨てただろうシャツもあちこちに放り投げられている。
恐らく、一度も洗濯や掃除などをしなかったのだろう。
そういったものは、何も言わなくとも「妻」が綺麗にするのがあたりまえだったからだ。
「あなたと一緒にしないでくれる?」
従順だった彼女の切り返しに、瞬間夫がひるむ。
そして大仰な態度で椅子に座り、誤解だなんだと声をあげる。
以前なら、それで誤魔化されていただろう。
いや、恐らくこんなことすら口にしなかっただろう。
彼の威圧感は、徐々に彼女の思考回路を磨耗させ、気がつかないうちに考えることを放棄していたからだ。
水からゆでられたカエルが、その場から逃げ出さないように。
あの、蝉の声が届いた瞬間まで。
「これ、あなたの彼女から」
今時焼いた写真を彼の前へと差し出す。
口にするのもおぞましいほど、肌色が目立つ二人の写真は、誰の目から見ても彼の不貞をあらわすものだ。
そんなものが幾枚も彼女の持っている封筒から出現する。
「証拠、集めるまでもないかなって」
「……、だから、違うんだって」
「なにが?」
言い逃れを口にする夫の姿は滑稽だと。
どこか俯瞰するような気分で見つめる。
こんな、人だったのか、と。
いや、きっとこんな人だったのだと。
きらきらと輝いていた交際時代の思い出すら、砂のように散ってしまいそうになる。
自分は、彼のどこが好きで、どうして一緒になったのかすら、思い出せなくなる。
「気の、迷いで。ほら、こんな一度の過ちぐらい」
さすがに、その行為を否定することができないと悟ったのか、作戦を変更させる。
曰く、男は弱いものだから、こういう誘惑にまけることもある、と。
「うん、そう、でも私、そういうの嫌いだから」
淡々と、事務処理を進めるかのように彼女が話を続ける。
用意していた離婚届は、すでに彼がサインをすれば大丈夫な状態となっている。
財産分与、慰謝料、彼女はすでに離婚を決めたかのようにただ淡々と。
「なんで!」
再び激高した彼は、立ち上がって彼女を威嚇する。
ほけっとした顔をして、彼女はにやりと彼を見上げる。
「生活感丸出しの、ばばあに成り下がった私なんて捨てて、さっさと彼女と一緒になればいいんじゃないの?あの子、ごはん一つ炊けないみたいだけど」
覚えのある台詞に、ぎくりと体を震わせる。
睦言の代わりに、恋人に聞かせた言葉を彼の妻が口にしている。
そんなことを想像もしたことがなくてうろたえる。
そして、その動揺が、その言葉が真実彼が吐いたものだと証明している。
「ごめん」
そして、突然土下座をして彼女に許しを乞う。
それもこれも、劇場型っぽい彼には似合いだ。
彼女の心には何一つ響かないけれど。
「これ、サインしないとお義母さまに渡さなくちゃいけなくなるんだけど」
数枚の証拠写真をひらひらとさせ、彼女が鼻先にそれをつきつける。
長い、長い沈黙の後、彼は言われるままにそれにサインをした。
「あっつい」
彼女は、額の汗をぬぐいながら、言ってもせん無いことを口にする。
地に足がつく生活は、やはり捨てがたいものがある。ジャンクフードも適度に口にし、そして自分のために料理をつくる。あの頃無色透明のようだった自分の料理を食べ、誰も居ないのに「おいしい」と口にする。あの時培った料理スキルだけは、元夫に感謝もしてよいだろう、そんな風に思える余裕があることに少し嬉しく思う。
何度目かの夏がやってくる。
蝉の声が、また聞こえる。