杜子春の如く
その男は、亀城公園の櫓門の下にたたずんでいた。訳もなく、ただ公園を行き交う人々を眺めている。今日は日曜で、いつもよりたくさんの人が公園を訪れていた。
息子とキャッチボールをしている父親がいる。将来は野球選手にでもさせたいと、夢を描いているのだろうか。それとも、こうして息子と一緒に遊んでいること自体、楽しくて仕方ないのだろうか。この父親は今、満ち足りているのだろうか・・・。
近くの亀城プラザで行われていた催し物が終わり、関係者が駐車場に向かって流れてくる。今日はピアノの演奏会だろうか、それともダンスの発表会だろうか。練習の成果が出せたのか、それともひとつのことをやり終えたという成就感からか、どの顔も喜びに満ちているように見える。彼らは今、満ち足りているのだろうか・・・。
日が暮れてくると、寒さが身にこたえる。空腹であれば尚更である。じっとしているのは辛い。男は歩きだした。公園の一角に小さな檻があり、中に1匹のニホンザルが飼育されている。何の因果でここにいるのだろうか。止まり木の上にちょこんと座り、真ん丸になって寒さをしのいでいる。ヤツは、一生ここから出ることはないだろう。じっとしていれば、食べ物はもらえる。決して飢えることはない。それは生き物にとって、とてつもなく幸せなことであるに違いない。
「うわ〜カワイイ〜」
観光客がカメラを向けている。結構人気者なのだ。しかし、ヤツは今、満ち足りているのだろうか・・・。
男は再び櫓門の下に戻った。昔読んだ物語であるが、杜子春という若者は、洛陽の西門の下にたたずみ、そこで仙人と出会う。3度金持ちにしてもらったが、それにあきたらず、自分も仙人になろうと修行する。結局仙人になることは叶わなかったのだが・・・もし仙人になれたとしたら、杜子春は、満ち足りることが出来たのだろうか・・・。
あたりが暗くなってきた。男は歩き始める。ねぐらに向かう途中、等覚寺という寺に寄る。掲示板に書かれた言葉を読む。かみしめるように何遍も読んでみる。
「満ち足りた気持ちになったとき、人はいつ死んでもいいと思う。満ち足りた気持ちになったとき、人はいつまで生きながらえてもいいと思う」
駅前のバス乗り場の横にある小さな公園、そこが男のねぐらである。わずかな段ボールとシートで寒さをしのぐ。
「私はまだ、いつ死んでもいいとは思わない。しかし、このままいつまでも生きながらえていたいとも思わない。結局、満ち足りていないってことか・・・。」
寒さに震えながら、男は自問自答する。
「満ち足りた気持ちになるために、私は何をすればいいのだろう。仕事を持ち、家庭を持ち、そこそこのお金を持てば、満ち足りた気持ちになれるのだろうか・・・。」
しかし答えは出ない。なぜなら彼自身、そんな生活を捨ててきたのだから・・・。