幸福な結末を望む
春の嵐。山桜は満開だった。辺り一面がすべて花びらに包まれている。
朝霞の中を、花を散らしながら若い二人はかけていく。彼と彼女は手と手をつなぎ、くすぐりあって笑い合う。まるで恋人のように、互いだけを見つめてはしゃいでいる。
桜道をかけ続け、終点のみすぼらしい掘っ立て小屋に、ほとんど同時にもつれあいながら駆け込んだ。狭くて古いみすぼらしいそれは彼のものだ。彼と彼女で二人ぼっち。邪魔をする者は誰もいない。
硬く冷たい木の床の上に、彼がそっと彼女を押し倒す。黒い髪が広がった。彼女は期待に目を潤ませ、首に両手を回し、足を絡ませて招く。
「早く、来て」
彼は誘われるように彼女の首筋に口を落とす。舌を這わせ、歯を当てる。彼女は瞼を下ろし、歓喜にすすり泣いた。その時を、待ちわびて。
けれど、彼はそこでやめて身を起こしてしまう。彼女の責めるような視線に、ばつの悪そうな自嘲の微笑みを浮かべた。
「これ以上は、ダメだよ」
彼女のやわらかな唇に指を当てて囁くと、崩れた着物の襟元を正し、さっさと背を向けてしまう。
彼女が暗い瞳でじっと見据えても、彼はけして振り向かない。己の理性を総動員して、堪えているのだ。手の甲を噛んで、泣き声を抑えて。
そっと距離を詰め、広い背中にもたれかかる。触れあった瞬間、彼の身体が大きく震えた。
「どうして、最後までしてくれないの」
彼女は甘えたような拗ねたような声で彼に訴える。彼はいつも、熱く息を吐いてから、答える。
「わからない。僕にも、わからないんだ」
彼女はしばらく、耳を押し当てている。彼女が動かなければ、彼も微動だにしない。風の音、鳥の声、それら以外に聞こえるのは静かな呼吸の音と鼓動。二人が生きている、証拠。
やがて触れ合っている部分から互いの体温が移り合った頃合いに、ようやく身体を離した。
夏の夜。沢には蛍が飛び交っていた。暗闇の中を、ぼんやりと光が飛んで時折点滅する。
足首だけ水に浸からせて、仲良く並んでそれらを見ていた。彼と彼女は手と手をつなぎ、同じものを見て同じものを聞く。まるで恋人のように、互いに身を寄せ合ってもたれかかっている。
一つの光が、こちらにやってきた。彼女の頭に止まり、どちらからともなく忍び笑いが思わず漏れる。顔を見合わせた瞬間、空気が変わる。彼が光に誘われるようにこめかみに唇を寄せる。蛍は彼らが身じろぎすると飛んで行ってしまった。飛び交う明かりの中に、二人きり。
熱が近づく。けれど彼女の期待通りには行かない。額に唇が押し当てられた。けれどそれ以上には、進んでこない。焦れて彼の顔を抱きかかえ、首元に押し当てる。一気に呼吸が荒くなったのがわかる。
「来て」
彼女の囁きに、彼はびくりと大きく身を震わせ――それから彼女を思い切り突き飛ばす。
ぼちゃん、と大きな水しぶきが上がり、彼女は水の中に沈んでいく。ごぼりと、吐き出した泡が水の中を上に向かって泳いでいく。ぼんやりそれを眺めている間に、すぐに二つの腕が伸びてきて水中から引っ張り上げた。
「……ごめんね」
咳き込んでいる彼女に彼が謝ったのは、一体何に対してなのだろうか。二人ともずぶ濡れだ。……今ここで帯を解いて裸になったら、誘いに乗ってくれるだろうか? 一瞬だけ浮かんだ愚行に、彼女はふっと目元をゆがめ、口元を上げる。
「いいの。あなたの好きにすれば」
微笑みを作り、彼がほっとした表情をする言葉を選ぶ。彼女は彼に嫌われたくなかった。家族もいない。他に行く場所なんてない。彼だけが、彼女を求め、優しくしてくれる。
濡れた着物の裾の汚れをついでだからともみ洗いしながら、彼が笑った。
「夏で良かったねえ。明日も晴れるだろうから、すぐ乾く」
彼女もいっしょに袖を絞りながら、笑い返した。
「本当に、ね。冬だったら、服を替える前に凍っちゃうわ」
騒いでいる間に蛍はすっかり散って行ってしまった。帰り道を手を引かれて歩きながら、暗くても彼が一緒にいてくれるなら何も心配はないと彼女は思っていた。
秋の雨。雨漏りのする家の中で随分長い間待たされたが、ようやく晴れの日がやって来た。潤った山はすっかり赤く色づいている。紅葉を楽しみながらも、彼らはせっせと枯れ葉や落ちている木の実を集める。薪を集めて冬の準備も始めなければならなかった。彼女の身体は彼よりもずっと脆い。凍えたら、死んでしまうのだから。
一緒になって山道を歩き、背負い籠に拾い物を入れていた彼が、ふと立ち尽くした彼女を振り返った。彼女はこちらを向くと、唇に指を当ててから、山の奥を指さす。獣の鳴き声が聞こえてきた。この時期、伴侶を求めて彼らは山の中に声を響かせる。
「恋の季節ね」
彼女はそうつぶやき、再び歩き出す。
「実ると、春に芽吹くのだわ」
栗を籠に入れながら歌うようにひとりごちている彼女から、彼はそっと目を逸らした。彼は彼女に何も与えてやることができない。彼らの間に花は咲いても実は実らない。いや、花が咲く事自体、そもそも間違いなのだ。
「明日、狩りに行くよ。皆肥え太ってる。美味しい肉が取れる」
少し考えてからそっと呟くと、彼女は採集の手を止めて振り返る。かさりと落ち葉が踏まれて鳴った。
「私のために?」
彼は優しく微笑んだ。今度は、先に視線を逸らしたのは彼女だった。
翌日、彼は立派な鹿を取ってきた。大きな雌鹿を軽々抱え、家の前で彼女を呼んだ。彼女は思いのほか大きな獲物にしばらく呆然と驚いたが、やがて顔いっぱいに喜びを浮かべ、彼に飛びついた。
温もりを、喜びを感じて、幸せだ、と彼は思った。ずっとこの幸せが続けばいいのに、と。
冬の雪。外はもうすっかり白化粧に包まれている。この季節になってしまうと、家からあまり出られなくなる。掘っ立て小屋の小さな囲炉裏に薪をくべ、二人で布きれをかぶり、ぴったりくっついて寒さをしのぐ。
彼の体温は高かった。時折、彷徨った口が彼女の肌に寄ってくる。舐め上げ、軽く噛みついてくる彼から、珍しく彼女が身を離した。
「どうかした?」
彼が優しく聞いてやっても、彼女は思いつめたような顔をして俯いている。
「ずっとこのままなの」
じっと待っていると、彼女はぽつりと漏らした。上げられた顔には、いつもの喜びは見当たらない。
「もう次で七度目の春よ。あなたはいつまでこうしているつもりなの」
彼は穏やかな微笑に少しだけ困った色を浮かべてから、消え入りそうな声で答える。
「……ずっと」
「嘘つき」
彼女は彼の大きな手に自分のそれを重ねた。彼女の手はひんやり冷たい。
黒い瞳が、赤い瞳を覗き込む。
「ずっと一緒にはいられない。ただ一つの方法を除いて」
「それこそ嘘だ」
「……昨日、音を聞いたでしょう。猟師かしら。狩りに来たんだわ」
「そんなの、また追い払うよ」
「そのうち、追っ付かなくなるくらい大勢でくるわ」
「じゃあ、別の場所に行こう。二人で」
ぱちっと薪が小さく爆ぜた音がした。彼女の吐き出す息が白い。
「ずっと一緒にいようよ」
視線が絡まる。彼は手を組み替え、彼女の小さなそれを強く握りこんだ。彼女は静かに彼を見据えている。
「私は年を取るわ。いずれ、衰える」
静かに、静かに。彼女は彼に言い聞かせた。
「だから、その前に」
「嫌だ」
彼は言葉を遮り、手を引いていこうとした彼女を抱き寄せる。互いの心音が聞こえるくらいに近づいた。何度目かの激しい衝動が彼を襲うが、彼は彼女をしっかり両手で包み込んだまま、唸って耐えた。
「だって、一度そうしたら、もう一緒にいられないじゃないか」
熱を堪え、本能に耳を背け、彼は必死に彼女を掻き抱く。彼女が手を伸ばして、普段は触れないそこに指を伝わせた。
彼の額には、彼女にない物がある。
一本の、角が生えている。
「どうして、食べてくれないの?」
初めて会った時から何度目かの問いを彼女がかける。その深い色の瞳を覗き込んで、彼は答えた。
「わからないよ。でも、食べたら全部が終わってしまうってことだけは、わかっているよ」
冷たい彼女の掌に、やがて彼の熱が伝わる。けれど彼女の冷たさは、きっと彼には響かない。
終わる? そんなの始まった時からわかっていたこと。
皆死んでしまった。彼女は一人、この山に逃げてきた。噂の人食い鬼に食べられていいと、食べられて終わるのがいいと、そう思って彼の領域に足を踏み入れたのだ。
けれど鬼は彼女を食べなかった。衝動的に噛みつきかけることは何度もあるが、そこから進んだことはない。どうしてなのかは、彼にもわからないのだと言う。好きと言ったことはない。好きと言われたこともない。彼らは鬼と人。そんな感情が芽生えるはずがないと、もうおかしなことが起こっているのに常識にしがみついていたがる心がある。
彼女を食べなかった鬼は、渋る彼女のために木の実を、動物を取ってきては食べさせ、手を引いて一緒に山を歩いた。山のことは鬼から教わった。春の花、夏の木々、秋の実、冬の雪……。鬼は色々な物を見せてくれた。彼女のために。彼女だけのために。そのうちに、凍えていた彼女の表情は溶けだし、いつの間にか笑い方を思いだした。
すべてを忘れるくらい、幸せだった。
それでも、生きていれば時は流れていく。
出会った時から鬼は年を取らない。小さかった彼女は、いつの間にか小柄な彼と同じ背丈になってしまった。
最初は本当に二人きりで静かだった山も、近頃は少しずつだが確実に、山に入ってくる人間が増えてきている。武器を持って、何かを探すように山を歩き回る。
住んでいる山だって彼らに優しいだけではない。冬は毎回厳しいし、うまく食べ物が見つけられずに飢えることだってある。
何よりも、すべては鬼の気紛れで成立している関係だ。彼が少し顎に力を入れるだけ。それだけで、何もかも元通りになる。
彼女も彼も知っている。二人に先はない。やってくる終わりが、遅いか早いか、それだけだ。
このまま二人でいられたとして、彼女は衰えていく。奇跡がいくら重なろうと、結局彼女が最後に彼を一人にすることは決まっている。
そうなる前に。
誰か邪魔な人に終わらせられてしまったり、つまらない事故で死んだり、自分が変わることで二人が変わってしまう前に。
この美しい時を、そのまま止めてくれないだろうか。
その口で、全部貪って、一つになってくれないだろうか。きっとそうするしか、幸せな終わりはあり得ない。
ああだけど、終わってしまったら、もう二度と会えないのだと。
愚かにも恐れているのは、彼女も鬼と同じなのだった。
人間より高い体温に包まれながら、彼女は夢想して静かに目を閉じる。現に幸せな二人の夢を見る。
そんなものはどこにもないと、本当は知っていても。
日が暮れて夜が来て、また朝が来る。
冬は過ぎて、春が来てしまった。
彼女は今日も、恋人のように彼にじゃれかかり、さりげなく肌を見せ、身体を押し当てて誘惑する。
彼はやっぱり臆病な恋人のようにふるまい、まだ彼女を食べない。
まだ、食べてくれない。