2.記憶の欠片
Against ones will Ⅱ
記憶の欠片
あるマンションの一室。
浴室から、一人の女性がシャワーから出てきた。お風呂上りの空気が冷たい。洗面所の鏡が一瞬で曇る。バスタオルで一通り拭きおわり、着替えようとしたところで、自分の持ってきた洋服ではない事に気が付いた。
どちらかといえば、ボーイッシュな服装な好きなのに、置かれていたのは、可愛らしい洋服だった。ついでにいえば、その洋服を買った覚えはない。
「……コレを着ろと?」
内心嫌だなと思いながらも、それを着るしかないので着ていく。
ダイニングのドアを開けると、嬉しそうな笑みを浮かべた彼女がいた。
「似合っているね。サイズもちょうどいい」
食卓の上には、ミニボトルのお酒が二本とチョコレートが置いてある。そういえば、今日はバレンタインだった。視線に気づいたのか、彼女はチョコを一つ持つと、はいと渡してくる。チョコを口の中に入れると、まろやかに溶けていく。
「もしかして、コレ買ってきたのか?」
「うん、今日はバレンタインと黒崎の誕生日でしょ?」
コレは、まだ、二月で肌寒いというのに、やけに肌の露出が多い。首元がざっくりあいているデザインのセーターと、ホットパンツ。
「肌が奇麗だから、露出する格好も似合うと思って。あ、着てきた服は雨に濡れていたから、そのまま洗濯しといた♪」
つまり、この服を着ているしかないわけだ。露出の高い服が嫌いなわけじゃない。だが、こういう可愛らしいデザインというのは、自分には似合わない気がして苦手だ。影が顔におりてきて彼女の方を見ると、少し頬が赤く染まっている。そのまま、正面から抱きつかれた。
「美咲?」
体温が高い。そっと美咲の頭に手をまわすと、ぎゅっと力が強くなる。
「黒崎」
どこかで聞いた事がある。『洋服をプレゼントするのは、その洋服を脱がすため』だと。
ふっと美咲の耳に息を吹きかけた。
「にゃっ」
体を震わせて、美咲は耳をかばう。
「耳、敏感だね」
くすっと笑いながら、頭を軽く撫でた。
「何するの?」
「何って、イタズラ」
そう笑ってみせると、神崎はすねたように離れた。
「私も、お風呂入ってくる」
ダイニングのドアがバタンと閉まるのを見て、浅くため息を吐き出した。わざと明るいものに、いつもと同じ雰囲気に変えてしまいたかった。ダイニングのドアを閉めて、神崎は安心した。
今、自分は何をしようとしていたのだろう。黒崎が恋愛感情じゃないのはあきらかだ。体温がほしくても、気持ちがともなっていなければ、意味がない。そんなもの、冷たい虚無感が襲うだけ。一時は満ち足りてもずっとじゃないし、きっと黒崎との関係の何かを壊してしまうのはあきらかだ。
脱衣所のドアを閉め、服を脱ぐと畳んで洗濯かごに入れた。
まだ、告白もしていない。誤魔化すのがうまい人が、こういう時うらやましいと思う。誤魔化す事がいい事だとはいえないが、少なくとも気づかれたくない時には必要だ。
なぜ、彼女を好きになってしまったのだろう。
シャワーを浴びながら、恋愛の話題をした時の事が頭の中をよぎる。
『黒崎は、告白は自分からする方?』
そう聞いたら、予想しない答えが返ってきた。
『…告白した事もなければ、された事もないから分からないな』
『……。初恋は?』
『まだ、だな』
『……。』
そう、だから黒崎に恋愛感情なんてものはないのだろう。さっきのイタズラは、ただの小学生のじゃれあいみたいなもの。恋愛感情がはいってくるようなものじゃない。分かってはいるのだが、期待は消えてくれそうにない。はたして、彼女を振り向かせられるのだろうか。自覚もさせてから。
「はぁ」
深くため息を吐いて、湯船につかった。
お風呂から出てダイニングに入ると、黒崎がグラス二個用意してくれた。
「どうぞ」
二本あるボトルのうち、一本をあけてグラスにそそいだ。
「「乾杯」」
カンっと高い音がする。立ったまま飲んで、グラスをテーブルに置いた。テーブルの上には野菜スティックと温めたチーズ置いてあった。少し小腹がすいた状態でワインを飲むと、アルコールがまわっていくのが分かる。空腹状態での飲酒は体に悪い。
隣に視線を向けると、もうすでに黒崎の顔が少し赤い。
「……美咲、きれいだ」
熱っぽい瞳で、彼女はそう言った。
私はあわてて視線を外す。チーズにつけてから、野菜スティックを一口食べる。
「何を、いきなり」
「なんか、頭がくらくらする」
「え?」
わずかワインを一杯だけ飲んだだけだというのに、黒崎の呂律はすでに怪しくなってきた。小腹すいていただけにしては、アルコールが回るのが早すぎる。相当お酒に弱かったのだろうか。そういえば、今まで一緒に飲んだ事がない。
黒崎は、頬杖をついて頭を支えて半分目が閉じかかっている。
「もしかして、もう酔っているの?」
「…分からない。お酒、飲んだ事ない。今まで、未成年だったから」
初めて飲んだお酒がワインでは、酔って当たり前だ。しかも、彼女は何も食べていないから酔いも早く回る。ではなくて…。
「黒崎、いくつなの?」
「今日、二十歳になった」
「うそ、てっきり歳、同じだと思っていた」
落ち着いた雰囲気だったので、二十四歳ぐらいだろうと思っていた。
「それは、釣り合って周りに見えてそうで嬉しいな」
笑顔を浮かべてそう言うと、テーブルにふして眠りの体制にはいっている。彼女と出会って3カ月経つが、1月2月と二回しか会っていない。お酒を買う前に確かめておけばよかった。ゆっくりと黒崎の髪を撫でると彼女は気持ちよさそうに目を閉じた。
さらさらと指とおりのいい髪質で、触っていて気持ちいい。ボトルのうち、一本を冷蔵庫にしまった。
「美咲は、実年齢よりも上にみられる方?」
「ううん、下に見られる事の方が多いよ。念のため、飲みに行くときには身分証を持ち歩くようにしている。一回、居酒屋でとめられたから」
苦笑を浮かべてそう言い、残りをコップにそそぐ。
「黒崎は?」
「高校の頃、学生割引で映画見ようとしたらとめられた。私服だったし、学生証も持ってなかったから、その時は大人料金で見た」
「どんな映画を見たの?」
「すすめられた恋愛もの」
眠そうに、黒崎は視線だけあわせてくる。
「少女漫画が原作の映画だった。あまり恋愛ものは好きじゃなかったから、薦められなかったら、見なかったと思う。私には関係のないものだと思っていなかったから、興味がもてなかったのかもしれない」
だんだん、とまりそうになっていく口調でそう言いながら目を閉じていくのが見えた。
「じゃ、黒崎は…」
と言いかけた口を閉じる。
黒崎は、もう完全に寝てしまっているのに気付いてふっと笑みを浮かべた。規則的な寝息が聞こえてきている。とりあえず、厚手のコートを持ってくると、彼女の肩にかけた。
あと一時間たったら、起こそう。
まだ残っているボトルのワインを、コップにそそいで野菜スティックをつまむ。キュウリなどさっぱりした味とワインがよくあう。
いつからだろうか、お肉のつまみを食べなくなったのは。
あぁ、黒崎に出会ってからだ。
『彼女は、何にたいしてもセンスがある。
自分のこだわりがあって、量よりも質を求めている。数があればいいというものじゃない。本当に、好きなものだけ近くに置く』
そう言ったのは、彩雲という青年だった。
『もちろん、人間関係も』
不機嫌そうに付け加えると、彩雲は私に視線をあわせた。
その時、黒崎と三人で会っていた。彼女が席をはずしている間に黒崎について話題をふると、彼はそう言った。
『だから、黒崎に好かれているなら自信もっていい。彼女はあの外見だし、本人は気づいていないけど、人気あるから執事喫茶でアルバイトって心配だ』
実の兄のような言い方に、ふっと笑みを浮かべてしまう。本当にこの人は、黒崎の事が好きで仕方がないらしい。だから、高校の頃から傍にいたのだろう。
ワインを飲み終わり、ボトルを台所で水洗いする。缶ビンが入っている袋の中にしまい、コップを洗ってしまい終わる。もぞっと黒崎が起きた。
「あ、起きた?」
「まだ、くらくらする」
「アルコールぬけるには、一晩くらいかかるから」
彼女は立ち上がってこっちに歩いてくると、抱きついてきた。後ろから抱きつかれて、身動きがとれない。酔っているからなのか、力が少し強く感じる。
「……眠いから、寝室までつれって行って」
「はいはい」
なんだ、ただ甘えてきただけか。寝室まで付き添って連れていくと、ベッドにもぐりこんだ途端に、黒崎はまた眠りについた。眠りについた黒崎の寝顔を見て、そっと手を伸ばして髪に優しく触れた。さらっとしていて、指とおりがいい。
特に手入れはしていないという黒崎の肌は、肌荒れもなく整っている。つんと頬をつついてみた。ほどよい弾力で心地いい。
酔いもまわってきていた。
明日は休日だから起きるのが遅くなってもかまわない。
友人とお茶の約束があるだけだ。
客人用の布団はないので、かけ布団をひっぱりだして、黒崎の上にかけた。そのまま同じベッドにもぐりこんで寝てしまっていた。
何が望みなのだろう。君が欲しいと思う。そんな自分に苦笑する。分かっている。結婚なんて、たった紙きれ一枚の契約。そう思い込んでいたかった。
紙きれ一枚じゃない、周囲の祝福がある事が、家族になれる事が羨ましいと気が付いてしまった。欲しいと欲求が高まるほど、飢えに似た感情は高まり、ますます欲しくなる。
叶わない恋ならば、仕事をこなして想いをはせる時間さえもなくしてしまえばいい。
俺の中に、君がいるから手を出しはしない。逃げるために、そんな事をしてもお互いに傷つくだけで、未来なんてない。それでも、だめなら…俺はどうしたらいいのだろう。諦める、その為には。
「……ルカ、オーバーワークでしょ」
「勝手に、人の考え事にわりこんでこないでください」
そう言って、ルカはコップを目の前に置いた。平日で昼間のファミレスは、主婦でにぎわっている。今の時間帯は、家事も一段落がつける頃だからだろう。
「仕方ないじゃない、感情がただもれだから」
「そんなに、ただもれですか」
「うん、それに…八日連勤って、休みとらなきゃ労働基準法を無視している」
「……あぁー、そうだよね。一応、シフト組む時に気をつけています」
ルカはまた、苦笑を浮かべている。この人は、分かりやすいようで、どこかつかめない。表情に出しているのは、知られてもいい事だけで、肝心の本心までみせてはくれない。透明で薄い壁が一枚ある。
「そういう美咲は、何か悩みですか?さっきから、ストローくるくるまわしている」
「…ルカって、時々人の気持ちを読むのが、するどいよね」
「気持ちを読むのは、するどくないよ。もし、読めていたら今ごろ…」
「「恋人がいる」」
「ルカのそのセリフ、何回か聞いた」
冷静になれば、いろいろ察する事もできる。けれど、どうして恋はその冷静になる余裕さえもなくしてしまうのだろう。自分のアイスティーを一口だけ飲んだ。冷たい感触が喉を通り過ぎていく。
「でも、好きな人がいるでしょ?告白したらいいのに」
「…告白しないって決めている。相手に、彼がいるから。かといって諦めきれない。会わなければ、これ以上、気持ちが育たないのに」
「会って、デートしているわけだ」
ルカは頬を赤くして、視線をそらした。
「デート、じゃない」
「二人で会っていたら、デートでしょ」
ルカは、恋愛にたいして不器用だ。告白するつもりはないのに、デートはしている。矛盾している。ふっきるつもりなら、その人と会わなければいい。
「僕の中では、恋人と会うのがデートです」
「…そう」
少しだけ楽に考えればいいのに、と感じた。けど、それは私にも言える事だと美咲は思った。恋は、自分の思いとおりにはならない。きっと、好き=恋人になりたいと願ってしまう事が、苦しい。
「そう、じゃ、私と会っているのはデートじゃない」
からかう口調でそう言い、ルカがどう返してくるのかを待った。答えは分かりきっている。はっきりと答えてくれる。そういうところが友達として好きだ。
「デートじゃないな」
苦笑をルカは浮かべた。そのあたりには、しっかり線をひいている。ルカの中では、友達には触れないとか、誤解されそうな事はしないと決めている。
「…大切、なんだね。その人の事が」
「あぁ、大切だよ。そういう美咲だって、あの子の事が大切に思っているだろ?」
「……うん」
黒崎の事が、大切だ。あの子がいたから、私はやけになって荒れていた気持ちをなだめられた。今の私がいるのは、あの子のおかげだと思う。
「…行動したいのなら、行動すればいいと思う。過去より、今だと思えたら次の恋に進んでもいいじゃないか?」
「ルカもね」
「……そうだな。考えてみるよ。じゃ、僕はこれから、バイトに行ってくる」
伝票を持つとルカは、そのままレジに向かって歩いていく。
「待って、私も出る。…ルカがスーツ着ているとホストみたいだね、執事には見えない」
そう言うとルカは少しすねた口調で一言吐き捨てた。
「……失礼な」
【1】
「マスター、そんな苦い紅茶を誰に飲ませる気です?」
ルカがアルバイトしている喫茶店についてカウンターに行くと、マスターに声をかけた。
「……っ!」
慌てて、この喫茶店のマスターの彼は紅茶を、金色の縁がついているコップに注ぎこむ。新しく紅茶の茶葉を出すと新しくいれなした。
「紅茶の蒸らす時間を間違えるなんて、マスターらしくない」
珍しく考え事でもしていたのだろうか。バイトに入ってから、数ヶ月たつが一度も間違えた事などなかったのに。チャリーンと自動ドア開くと鳴る呼び鈴の音がする。カウンターに行くと、黒崎がスーツ姿で立っていた。隣には美咲がいる。
「…お帰りなさいませ、お嬢様。こちらの席にどうぞ」
美咲のいる方の椅子をひいて、席についてもらう。黒崎は自分で椅子をひいて席についた。
「アールグレイとローズヒップティーをお願いします」
「かしこまりました」
「手伝います」
席を立って、黒崎は厨房についてきた。
「じゃ、ローズヒップいれます」
「了解」
黒崎は、手際よく紅茶を淹れていく。バイト初日は、蒸らす時間とかが分からずに、たどたどしかったのに成長したものだ。
「……ルカは、自分に好意をよせている相手がいるとして、その相手に同じ好意をもっていなかったら、どう接していますか?」
「相手が告白してきたら、断るな。はっきりしなかったら、対応できない」
「…そうですか。自分の気持ちも分からないと、対応できないですね」
「黒崎は、どうしたい?」
「私は、どうしたいのでしょう?」
黒崎は、首をななめにかしげた。片手を口元に持ってきて考えこんでいる。
「嫌だというわけではないです。拒否したいわけでもない。そもそも、恋愛感情なんて分からないから、かわすしかない」
「……もし、自分の感情が恋愛だと自覚したら、付き合うのか?」
「そうなりますね」
蒸らし時間が終わり、黒崎はカップに紅茶をそそぎこむ。
「先に行きます」
ルカは、黒崎の後ろ姿を見送る。
「…自覚、ね」
視線をカップに戻すと、ある人の姿がよぎって苦笑を浮かべた。
「お待たせいたしました。アールグレイでございます」
席に行き、黒崎の前にカップを置く。美咲の前にはローズヒップティーが置かれていた。彼女は嬉しそうに紅茶を飲んでいる。周りに音符でも浮かんでいそうな雰囲気だ。
「美味しい♪」
黒崎は、彼女に優しげな視線を向けている。目元だけのわずかな変化に、美咲は気付いていないのだろうか。
「失礼いたします」
一礼してから、厨房に向う。マスターは、高校生ぐらいのお客にさっきの紅茶を出していた。何やらいろいろと質問攻めにあっている。横目で視線を向けると、見覚えのある子だった。近くの公立高校に通っていて、狼グッズのためなら、情報収集などをうけおっているとか。
「……触らぬ神に祟りなし、だな」
直感で身の危険を感じて、その場を早足で去る。しばらくして、厨房にもどってきたマスターは疲れきっていた。
「お疲れさま」
声をかけると、彼は苦笑を浮かべる。
「…今時の女子高生は、怖いな。若いし元気だ」
「マスターだって歳はちかいでしょう」
「いや、五歳違えば、若さが違う」
「若さの問題というよりも、あの子だから…じゃないですか?」
「そうだな。知り合いに高校生がいるが、怖くはなかったな」
マスターは優しげに目を細める。
「その子は、可愛い。不器用な優しさが、好きだ」
「…なるほど」
愛しく感じているのか。他人だと、簡単に分かってしまう。
「その子は、特別なの?」
「…お嬢様だから」
「お嬢様、ね」
本人の自覚はまだないようだ。
「だから、大切だし特別に感じている」
「マスター、あの人から追加の注文だそうです」
「わかった。今、行く。…黒崎、今日シフト入ってないだろ?」
「休日ですが、彼女にバイト先を見たいと、言われて…」
厨房から2人が出ていく。マスターは途中で振り向いた。
「あ、新山。休憩していいからな」
「了解」
珈琲豆を取り出し、ミルでひく。ドリップ式でカップにおとしこんでいくと、いい香がした。味わうように一口飲み込む。
「あぁ、落ち着く」
恋愛にもいろいろあるみたいだ。疲れた時には、珈琲が一番リラックスさせてくれる。これから考えなくちゃいけない事が、気が重くなる内容でもいい方向に向かう気がするからだ。眼鏡を外すと、ベストの胸ポケットの中にしまう。自覚させたい側と、自覚する側、両方向の視点から話が聞けるのは面白い。だけど…。
「…さて、どうしようか」
自分の事になると、分からなくなるのはどうしてだろう。好きな人の姿を浮かべて、あさくため息を吐き出した。
【2】
今日は、なんだか暖かい。春に比べれば寒いが、身にしみるほどではないので散歩に出かけようかと感じてしまう。近くの水族館の広場歩きながら、美咲は、隣に視線を向けた。
黒崎の髪型は、個性的だ。長い髪が、耳のところは短く切られているので前からみたら、すっきりして見える。後ろの髪はすいてあるので、もっさりとしていない。
「黒崎は、どこで髪を切っているの?」
「自分で切っている」
「自分で切れるの?」
「あぁ」
前髪を切るぐらいなら、やった事がある。でも、全部を切った事はない。ちなみに、後ろの髪をのばしているのは日焼け防止と、首が暖かいから、らしい。
「自分で切った方が、切りたい時に切れるから。慣れれば、切れるようになれるよ。プロ並みにはできないけど…」
「黒崎って、器用だね」
広場にあるベンチに座りながら、美咲はそう声をかける。まだ、昼間だが平日の水族館はすいていて貸し切りなんじゃないのかと錯覚するほど、ほとんど他のお客様の姿を見かけない。
家から持ってきた水筒を取り出して、ハーブティーを一口飲む。黒崎が隣に座った。このローズヒップティーは、黒崎が家でいれてくれたものだ。体があたたまるからという理由で、よくハーブティーを出してくれるようになっていた。ハーブの香りにはいろいろ効能があるらしい。その時、こう言っていた。
『目的によって飲むのもいいだろうけど、自分の好きだという感覚で選ぶのもいい。自分にとって必要なものだから』
黒崎は、浅く広くいろんな事を知っている。珈琲も本格的に淹れる事もできるし、ハーブやアロマ関係も詳しい。
「…そう、かな」
「うん、そう」
「黒崎は、これからのやりたい夢ってある?」
「夢、か…子供の頃は、アロマセラピストになりたかった。最初は自分がアロマに癒されていたけど、その知識で他の人も癒したいと思えるようになっていたから」
「アロマに興味があったの?」
「アロマに興味があって、ハーブにも興味を持ったような感じかな」
「そうなんだ」
「美咲は?」
「私は、今のところないかな。仕事も安定しているし、黒崎が傍にいてくれるから」
ふっと黒崎は、照れくさそうに笑みを浮かべた。
「そろそろ、行こうか水族館」
「うん」
ベンチから立ち上がって、黒崎は片手をさしのべてくる。その手をつかんでベンチから立ち上がると、彼女の手を離した。
夢はある。
いつか、この手を離さずにいられるようになる事。そして、子供の頃に決めていた事が、もう一つある。それは、好きな人と水族館にデートする事。子供頃にたまたま読んだ少女マンガで、水族館を舞台にした読み切りの話だった。いつか、あんな風にデートしてみたいと憧れていた。
「黒崎は、水族館の魚だと何が好き?」
「サメ♪」
鮫は、たしかこの水族館では入り口近くの水槽に泳いでいたはず。鮫が好きとは、黒崎らしい。きっと、理由はカッコイイからなのだろう。
「美咲は?」
「私は、イルカ。自由に泳ぎ回る姿が好き」
水族館の入り口につくと、エスカレーターに乗っておりていく。 ここの水族館は、実家から近くて数回来ている。平日はお客さんが少なくて、落ち着いてまわれるのが好きだった。イルカの水槽の前で、静かな空間で一人、ながめていると不思議と心が軽くなる。
海の中にもぐっていく水音が聞こえ、エスカレーターで一番下にたどり着くと隣に視線を向けた。
声をあげるでもなく、黒崎は目を輝かせている。好きなものを見る時には、瞳孔が広がるのは本当のようだ。
「何の鮫が好きなの?」
「ツマグロと虎鮫。虎鮫は、体験で触った事がある」
「…鮫に触れるの?」
「大人しくて、大きさがぬいぐるみほどの小型の鮫だから、ヒトデに触ろうって感じの体験コーナーで展示されている」
「へぇー、どんな感触なの?イルカも体験で触った事がある」
「……サメ肌ってこういう事を言うのかって、納得できるような感触だった。イルカは、あついゴムを触っているような感触だった」
鮫に触れる体験があるなんて知らなかった。ヒトデやイルカ、アシカやシャチは記念撮影などのふれあいイベントが多い。イベントは、入り口近くの掲示板や、それぞれの水槽前に張り出されている事もある。ふれあいイベントだと、他には…。
「黒崎、これやってみない?」
「餌やり体験。面白そうだね」
ふと、餌やり体験のイベントのポスターが視界に入った。当日の予約制で、定員になりしだいその回の受付が終了となってしまうが、次の回の予約はできそうだ。近くの職員に聞くと、受付できた。時刻の十分前集合だという。
「美咲は、やった事があるの?」
「前に、ルカと来た時に一回やった事があるよ。水族館の水槽を上から見たのは、新鮮だった。餌はもう細かく切られてバケツに中に入っているのを、水槽に投げていくの」
前にルカと水族館に来た時に、やってみない?と誘われた。他にも、水族館のふれあいイベントについては、ルカから聞いた。
「そうなんだ」
黒崎は、少し不安そうな表情を浮かべている。
「まだ、時間があるし…イルカの水槽を見に行こうか」
【3】
イルカの水槽まで歩いていく。黒崎は、神崎の横顔に視線を向けた。
魚の中では、鮫が好きだ。理由は、鮫の体型が直線的でカッコイイ。男の子がカブトムシを好きだという理由と同じだと思う。神崎が私に好意を抱いている事は知っている。
前の仕事で彼女と出会った時、彼女は精神的に弱っていた。
心の傷に向き合っていた時に、たまたま傍にいたのが私だった。
弱っていた時にたまたま傍にいたのが私だったから、好きなのだと錯覚してしまっただけなのではないか。本当に好きなのかと疑ってしまう。弱みにつけこんでしまっただけなのではないか。一時の気の迷いではないのか。そんな事を考えてしまうと、不安が止まらない。いや、そもそも、私の気持ちは恋愛ではないと思う。
恋心は、どこからが恋なのだろう。
「綺麗だね」
イルカの水槽前につくと、楽しそうに泳いでいるイルカの姿が見えた。人気者だけあって、数組のカップル達が水槽の近くにいる。
「そうだね」
さっき、ルカと水族館に来た事があると聞いた時、心の中がざらついて、嫌だと感じた。
「…上手く撮れない」
携帯の写メでイルカを撮ろうとしても、動いていて難しいみたいだ。
カシャッ
音と共にフラッシュがたかれた。水槽の近くにいた若いカップルの一人が写メに撮っている。館内は昼間でも、薄暗く上手く撮ろうとしてやった事だろう。声には出さないが、眉をひそめた。
「フラッシュは、やめてください。そう書いてあります」
神崎は、かすかに笑みを浮かべて、フラッシュがたかれた方に低めの口調で優しく伝えた。彼女が指さした先には、フラッシュ禁止の文字が書かれている。
「あっち、行こうぜ。なんだよ、うるさいな」
少年は、少女の手をとってその場を離れようとした。少女は、ペコっと慌てて頭を軽くさげた。
「…すみませんでした。知らなくて」
そのまま、少年に手をひかれて少女はその場を去った。
「素直な子だったな」
「うん、子供は素直だね。なんか、可愛いカップルだったね」
「あぁ」
カシャッ
写メでイルカを撮った。なぜか、イルカはよってきてくれて頭のアップが撮れた。
「若くて可愛いな」
気がついたら、そう口にしていた。それも、あんな夢を見たせいだ。
夢の中での私は、ぬくもりを求めていた。たった一人のぬくもりが、欲しかった。彼女は、好きになっても認めてくれた。
夢の中では、屋敷の主と、使用人。同性同士。屋敷の跡継ぎ問題。成人をすぎて、いろいろ考えなければいけない事が、気持ちを伝えるのに邪魔だった。あのカップル達は、そんな事など考えずに付き合えているし幼い。
「そういえば、黒崎は、年下が好みなの?」
「どうだろう……年上が好きかな」
「そう♪」
笑顔を浮かべている神崎を、残しておきたくなって携帯の写メで写した。
あの夢は、ただの夢なのだろう。ひどく断片的な思いだけが、強くて手放したくないと感じた事だけが印象に残っているような夢だった。夢の中で、神崎によく似た雰囲気の彼女の事を想う気持ちが強かったから、だろうか…。
写真に、切り取っておけば、しばらく残しておく事ができる。想い自体は残せないものだから。
「なんで、撮ったの?消して」
「…消さない」
携帯を、バックにしまおうとすると、美咲に奪われてしまった。
「削除」
「残念」
携帯の画面に、『削除しますか?』の表示が出て削除された後で、携帯を返してくる。
恋をするとは、どういう感情なのだろう。
しばらくの間、人間関係すら断っていた私には想像できない。携帯をバックにしまった。
その後、水族館のイベントを楽しんだ後に帰宅した。帰宅してから、リビングのソファーに寝そべる。
夢は夢であって、現実に起きた事ではない。なのに、動揺するなんて今まで一度もなかった。
携帯が振動して、メールが届いた事を知らせる。差出人は、ルカから。開いてみると、明日のシフトの時間を早められないかという相談。うちは従業員が少ないので、定休日が2日ある。定休日以外は全員が出勤する事になっている。
了解のメールを送ろうとして、本文を付け加える。すぐにメールの返信があり、シフトが始まる前に喫茶店の前でルカと待ち合わせをした。こういう事の悩み相談は、ルカがいいのかもしれないと思った。
「……ホストみたいですね」
「今日は結婚式の二次会に行く予定で、スーツにしただけ」
職場の喫茶店に入り、飲み物を入れてテーブルに置いてルカを見た。
いつものカジュアルな服装ではなく、いい生地のスーツを着ているルカの周りの空気がキラキラとしている。黒のダークスーツを着ているのに、Yシャツが二つボタンの高襟で、淡い紫色で明るいイメージがする。
「それで、相談って何?」
「彼女に、美咲にたいする自分の気持ちがよく分からなくて」
「あぁ、たしかデートしてきたらしいね。美咲から聞いた」
「……もう、聞いたのですか」
自分でも口に出した後で、大人気なく口調にトゲをもってしまっているのに気が付いた。自分で気づくよりもイラついた気持ちが口にでる方が早いなんて、今まで一度もなかったのに。
ふっと苦笑を浮かべた。
イラつくなんて感情をもつ前に、私は他人と関わるという事、その事を避けていた。こんな経験を今までもつわけがない。
「うん、美咲とは長い付き合いだからね」
そこで、ルカは珈琲を一口飲むとカップをテーブルに置いた。
「自分の気持ちが分からないね……じゃあ、質問を変えようか。もう、自分の気持ちに気が付いている。だから、戸惑っているから、相談しに来た。戸惑った理由は何?」
「うっ、質問がストレートすぎませんか?」
「ストレートに言わなきゃ伝わらない事もある」
自分用に淹れた紅茶を一口飲みカップをもどしたテーブルに置いた。
「それで、何があった?」
「それは……」
昨日の事を話していくうちに、自分の中で整理できてきた。聞き終ったルカは、意地の悪い笑みを浮かべる。
「つまり、それは僕に対してやきもちをやいていたわけだ」
「……はい」
「彼女の事が好きだね。……恋愛かどうかは別にして」
「そうみたいですね」
「好きだと自覚できただけ、よかったね」
ルカにしては珍しく、砂糖とミルクを入れてカフェオレにしている。彼女は、いつもブラックで飲んでいる。それも、エスプレッソが好きだ。
「この先、彼女とはどうしたいと思っている?」
「この先の事は正直考えられません。その、彼女の事が好きだとしても…」
「恋愛感情どうか分からないから悩んでいる、ね。……彼女にそのまま伝えればいいじゃないのか。きっと、喜ぶと思うから。答えを出すのは、焦らなくていい。もし、彼女の気持ちには応えられないと感じた時に、そう伝えればいい。その後の事は君たちしだい。その時になったら、自然と分かるよ。これが、恋だって」
マドラーでくるくるとかき混ぜてから、ルカは一口飲むと甘そうに眉をしかめた。苦手なら、いれなければいいのに。今度は、その珈琲を一気に飲み干す。
「いつから、甘党に変わったの?」
「今も甘党ではないよ。珈琲はブラックが一番美味しい。知り合いが甘くないと飲めないっていうから、飲んでみただけ。あ、もう時間だ。じゃ、バイトのシフトの件よろしく」
「了解」
ドアに向かって早歩きで向い、お店から出て行ってしまった。
ルカは、いつもあんな感じの服装をしていて、違和感がまったくない。声を聞かなければ女性であることに気づかないかもしれない。素直にカッコイイ服装がよく似合う。それでいて、友人が多くて面倒見がいい。こういう時、相手のいい面ばかりが目についてしまう。
「彼女がルカを好きになるかもしれないな」
そう考えて、また、勝手に気持ちがあれてしまう。気持ちを落ち着けようとして砂糖に手を伸ばしてカップにいれた。無意識に甘いものが欲しくなるときは、いつもこんな時だ。何か考え事をしている、そんな時に欲しくなる。
「……ん?」
もしかして、ルカも何か考え事をしているのだろうか。
【4】
「お帰りなさいませ、お嬢様」
いつもの一礼をすると、そこには美咲が立っていた。隣には、知らない女性が立っている。興味深そうに、店内の内装を見ている。二次会からバイトの出勤をしていたルカがこっちに気づいて歩いてくる。店内はもう、閉店間際でお客は誰もいない。
「お帰りなさいませ、お嬢様。……好きなところに座って」
「じゃあ、ここにする」
「どうぞ」
適当なところに席をとった彼女達の椅子を後ろにひき座らせる。
「「ご注文が決まりしだい、お呼びください」」
そう言い、一礼すると奥で待機する。しばらくすると、あさいため息をルカは吐き出した。
「……ため息を吐くと、幸せが一つ逃げていきますよ」
「もう、何個幸せが逃げて行こうとかまわないよ。そんな気分」
ルカは苦笑を浮かべてそう答えた。
美咲たちの方を見ると、何やら楽しそうに会話している。ある程度しっかりした服装をしているという事と時間的に、仕事帰りだろうか。美咲はメニューを見ながら、話していたが視線をこちらに向けてくる。
「そこの自棄になっている執事さん、注文お願いします」
「自棄にはなっていませんよ。……ご注文をお伺い致します」
私も、傍にいき注文を聞くと厨房に向かう。
「誰の結婚式の二次会だったのですか?」
「大切な人の、かな。いや、もう自分でもなんでややこしい人を好きになったのだろうかとか考えていたら、いろいろ考えなきゃいけないなんだと再確認しただけ」
「?」
「……黒崎、手を動かす」
「あ、はい」
今回の注文は紅茶が二つだけ。夜だから飲み物だけにしたのだろうか。そんな気体型なんて、気にしなくていいぐらいなのに。茶葉を3杯分計量して、お湯をゆっくり注ぎ込む。それぞれの蒸らし時間をタイマーでセットしてテーブルに置いた。
「へぇー、こんな感じなのか。執事喫茶」
「うん」
美咲は、職場の同僚を見て頷く。
一人で息抜きのために執事喫茶によったのに…。
それもお客がほとんどいない時間を選んで行こうとした。会社を出る時になって、執事喫茶によりたいとこの子に言われた。断る事もできずに、そのまま今にいたる。最近になって話すようになっていた子だった。お冷のコップを一口飲む。
「ねぇ、美咲はどっちがタイプ?」
「…っ、いきなり何を聞くの?」
一瞬むせそうになってしまった。
「何って、好きなタイプ。まだ、好きなタイプの話とかした事なかったから」
「んー…髪が長い方」
「ふーん。私は、もう一人の方かな。なんか、知的な感じ」
「第一印象は、ね。実際に話したら、そのイメージ簡単に壊れるよ。知的なのは、さっきの髪の長い方の子だと思うけど」
「知り合いなの?」
「まぁ…そうね」
「どんな人なの?」
「どんなって…」
一言ではうまく言えないなと考えていると、背後に二人の気配を感じた。振り向くと、私と彼女の左側に立っている。お盆の上には、ティーポットとコップが乗っている。
「おまたせ致しました。オレンジジンジャーティーとカモミールでございます」
静かに置かれたコップとティーポットからは、小さい音がコンっとしただけだった。コップに触れると、容器が温められている。
「国産の蜂蜜です。お好きな量だけお入れください」
黒崎は、小さな容器をテーブルの中央に置いた。
小さな容器に、入れるためのスプーンと蜂蜜が入っている。美咲にとってはいつものティーセットだが、この子にとっては、初めてだったようだ。
「お砂糖じゃないの?」
にっこりと営業スマイルをルカは浮かべて、彼女の方に視線を向ける。
「ファミレスや喫茶店のチェーン店では、ガムシロップにシュガースティック、ミルクがプラスチックの小さい容器に入っているものが多いものです。ですが、ハーブティーには、蜂蜜の方があいますよ。一度試してみてください」
「へぇー、知らなかった」
「ほんと、ルカはこういう興味のある事だけ詳しいのよね。味にこだわって珈琲豆までこだわっているし」
「珈琲は、珈琲味でしょ?」
この子の質問に、黒崎はそっと優しく答える。
「豆によって味が違います。コク、甘さ、苦味などは豆ごとに違うものなので、飲み比べをおこなってみると分かります」
「あとは、淹れ方にもよるのよ。蒸らす時間が少なければ、味がうすくなってしまうの。目安の量が決まっていて、回数を多く入れると苦みがますこともある」
そう付け加えるとカモミールをコップに注いで、一口飲んだ。
「美味しい、黒崎」
「ありがとうございます」
二人の様子を見ていた彼女は、何かに気づいて意地の悪い笑みを浮かべた。
「二人とも本当のお嬢様と執事みたい…カップルみたいでお似合いだよね♪新山」
一応、執事という設定なので苗字で呼ぶことになっている。一瞬ルカは、なぜそれを俺にふる?と表情を浮かべそうになるのをひっこめた。
少し間を置く間にどう返すべきか思考すると、猫が獲物を狙うような意地の悪さに磨きのかかった笑みを浮かべる。
「さようでございますね。ここは、お嬢様方と私たち執事の憩いの場、恋人同士のように親しく感じられる場所です。ですが、私にもカップルのように見えます。あぁ、それから…もちろん、私、新山は貴女の執事でございます。」
カップルの単語をわざと強調すると、二人とも分かりやすく動揺した。黒崎は、かすかに頬を赤く染めた。美咲は、カップをテーブルにもどすときに紅茶をこぼしそうになっている。ほぼ、同時に二人はルカを、軽く睨みつけた。
「ふーん、新山ってどんな人がタイプなの?」
「私の好みのタイプですか?それは、お嬢様には秘密でございます。」
「えぇー、なんで?」
「……この人、猫みたいな人が好みよ。それでいて、好きになった事があるのは猫を飼っている人なのよね。食事を作ってくれる人がいいとも言っていた。そうそう、友達には美人さんが多いわね」
お返しとばかりに、美咲がにやりと笑みを浮かべている。
あの笑みは、少し困らせてやれと思っている証拠だ。黒崎の方はルカから視線をそらしている。たぶん、同じ気持ちなのだろう。 店内の掛け時計を視界の端で確認すると、閉店まで十分をきっている。
「猫好きですか?実家で猫飼っていたの。今度、猫の写真もってきますね♪あと、料理できます」
「猫の写真、楽しみにしております」
「そろそろ、お出かけのお時間でございます。」
「そうね。そろそろ出ましょうか」
「…うん」
名残惜しそうに支度する子を待ってお会計をすませると、執事喫茶のドアを開けた。
いつもこの瞬間が寂しい。現実にひきずり戻される。この喫茶店にいる間は、嫌な事も忘れられるから、なおさらだ。2人は丁寧にお辞儀をして、いつものセリフを口にした。
「「いってらっしゃいませ、お嬢様」」
「新山さん、カッコよかったなぁ。もろタイプ。眼鏡、ちょっとだけSっぽいの」
「……あの、念のため言っておくけど、2人とも女性だからね?」
「うん、雰囲気で分かっているよ。憧れは憧れで、恋は恋で別にきり離しているから」
「分かっていればいいけど…」
執事喫茶を出てすぐの道を駅の方向に向かって歩いていく。このあたりの街灯は、最近になって水銀灯に変わり、明るくなっているとはいえほとんど人が通っていない。
「ほんと、このあたりって街路樹も多くて、のんびりしている雰囲気だよねー」
んー…と背伸びしながら、その子がそう言う。まだ、七時半だというのに駅の近くに来てもすれ違ったのは、黒猫が一匹だけ。その猫も、道端で暇そうにあくびをしている。
「でも、本屋に行くのに隣の駅まで行かないとないから、買い物が大変」
「そんな場所に執事喫茶って、どうして作ったのかな?」
「確か、マスターが自分の喫茶店作りたくて作ったって聞いたけど、それ以上は知らない」
「ふーん、あ、もう駅についたからここで。また、明日」
「うん、また明日。お疲れ様」
喫茶店の最寄り駅まで見送り、そのまま帰路につこうとした。
その時、ぐらりと嫌な感じに地面が揺れる。ここのところ、小さい地震が多発している。立っていても感じる事のできる地震、その後、ゆっくりとした大きな数秒間揺れは続いた。
電車のアナウンスの声が聞こえる。
『ただいま、大きな地震がありました。電車の安全を確認するまで電車は遅れます。大変ご迷惑をおかけいたしますが、いましばらくお待ちください』
あの子が困った顔を浮かべているのを見て、浅くため息を吐き出した。
「……とりあえず、ここから近いからうちに来る?」
「ありがとう♪」
【5】
すべての閉店作業後、帰路についていた。黒崎は美咲に携帯電話をかけてみたがつながらない。一緒に帰宅していたルカはメールを打っている。
「……電話が、つながらない」
「メールもつながりづらいな。正月メールの時みたいに、回線がパンクしている。電話もまず無理だ」
背中に悪寒が走る。
再び地面が揺れた。建物の窓ガラスがわれるのではないかと怖さがます。
「私は美咲の家にいくので、ここで」
「待て、この揺れがおさまるまでは動かない方がいい」
しばらくして揺れがおさまると、アスファルトに黒い線が雷のようにジグザグにたくさんはいっていた。今まで、何度も地震を経験してきたけど、危機感を感じるほどの大きな地震は初めての経験だ。ルカに腕を強くつかまれていて、動けない。
「店長には、メールしといた。電気もガスも全部しめてきているから、大丈夫だろう」
「ルカは、これからどうしますか?」
「徒歩で帰宅する。美咲の部屋の隣だから、一緒に行こうか」
ルカは苦笑を浮かべて言うと、携帯をコートのポケットの中にしまった。そんなに遠くないはずなのに、時間が流れるのが長く感じる。余震で、さっきよりは小さくなった揺れを感じた。
美咲の住んでいるマンションの部屋につくと、インターホンを押した。
「はい、あ…黒崎さん。と、新山さん♪」
先ほど、美咲と一緒に執事喫茶に来ていた女性が出てきた。その後ろから、美咲が出てくる。驚いて軽く目をみひらいた。
「……どうしたの?」
「地震があったから、心配で来た。メールもつながらなくて」
「そっか。ありがとう。どうぞ、ルカもあがって。」
「「…お邪魔します」」
リビングに入ると、テレビがつけっぱなしになっている。今回の地震についてのニュースが繰り返し流されている。
震度5だったようだ。地震対策で棒を家具すべてにとりつけているせいか、物はあまり落下していない。小物が数個、床に転がっているくらいだ。食器の類は、落下しなかったようだ。
「とりあえず、何か飲もうか」
「んー…、そうしようか。ルカ達は、好きに使って」
「了解」
「わかった」
美咲は、4人分のコップを出してきた。
ルカと黒崎はそれぞれ珈琲の袋とドリップ、ティーパックの紅茶を持ってくる。
「二人は、何を飲む?」
「「珈琲」」
「了解」
珈琲はすでに豆を挽いて冷凍庫にしまっておいたものだ。それをもう一つのコップにドリップをセットして、ポットのお湯を注ぎこむ。珈琲のいい香りがする。
テレビの音声は、今のところ電車は全線で止まっている事を伝えている。他の地域の情報は入ってきていないらしく、流れていない。
とはいえ、思っていたよりも広範囲の揺れだったようだ。何県もまたいで震度が伝えられている。震源地は静岡県の海の側。揺れた時のテレビ局の中の映像が繰り返し流れている。ルカと黒崎は、コートを脱いでとりあえず椅子にかけた。
美咲の同僚が、コップに口をつけて一口飲む。
「あー…あたたかいものを飲むと落ち着くね」
「そうだね…えーと…」
黒崎は美咲の同僚の人に話かけようとして、そういえば名前をまだ聞いていなかった事に気づいた。察した彼女が口を開く。
「まだ、名前言ってなかったっけ。私、松本梨江」
「松本さん、よろしく」
「こちらこそ」
ルカは、珈琲を淹れたコップを片手に持ってテレビのある方に向かった。テレビの台から落ちてしまった写真たてをもとの場所に戻した。部屋の壁にかかっているハンガーを持ってきて、黒崎と自分の分とコートをかける。どこに何があるのか、全部把握しているみたいだ。ルカが美咲の方に視線を向ける。
「美咲、夕飯食べた?」
「まだ、食べてないよ。これから食べようかと思っていたところ」
「じゃ、冷蔵庫と台所借りるよ。何か軽いもの作るから」
「ありがとう」
「あ、はい。私、手伝うよ。普段料理しているから」
松本さんはそう言うと腕まくりをする。ルカもシャツの袖をまくり七分丈ぐらいにしている。
ルカは台所にもどってくると、冷蔵庫を開けながら黒崎に視線を向けてきた。
「2人はそのへんでのんびり過ごしていて」
「終わったら、声かけるから」
「…分かった。じゃ、寝室に行っているね。部屋着に着替えてくる」
待って、と口に出すより早く、黒崎は美咲の手首をつかんでいる。なに?と美咲は視線だけで問いかけてくる。
「えーっと……少し、疲れているから、横になってくる」
「ん、分かった」
「あとで、呼びに行くね」
寝室のドアを閉めると、気まずい空気が流れた。
「ごめん……美咲の事、好きだけど恋愛感情だと自覚がなくて」
「そっか」
「だけど、大切な存在で。好きだから、伝えずにはいられなくなった」
美咲は苦笑を浮かべる。
「こんな地震の時にと思うかもしれないけど、命の危機を感じたから伝えておかないと後悔する」
苦笑を浮かべている美咲を見て、蛇の生殺しのように残酷な事を告げている自覚がある。それでも、今、この手をずっと離したくないと強く感じる自分は、すごくわがままで自分勝手なのだろう。
「雫、ありがとう。気づいていたの?私の気持ち」
「……なんとなく、雰囲気で」
「そっか。なら、こんな風に二人きりでいるのが危険だとは思わないの?」
からかうような意地悪な笑みを美咲は浮かべた。
「危険じゃないよ。美咲は、強引にそういう事はしない」
美咲の手が頬にのびてきて、ふにっと頬をかるくつねられた。痛みを感じない、じゃれあいのもの。そのまま、ぽんぽんと頭を撫でられた。
「そう言われるのも、なんだか複雑なのよ」
「ごめん」
「いいよ、謝らなくて」
美咲は、箪笥の引き出しから部屋着を取り出す。
「着替えるから、少しあっち向いていて」
慌てて視線を美咲からそらした。着替える気配を感じる。
今まで、同じよう状況になっても、何も感じていなかったのに、意識してしまうのはなぜだろう。そうだ。いっその事、ここから先が恋愛なのだと分かりやすく自覚できれば、悩まなくていいのに。
「お待たせ、もういいよ」
そう言いながら、美咲は脱いだ洋服をたたんでいる。
「あ、こんな時間か…もう遅いから、泊まって行く?」
寝室の置き時計を見ると、十時になっている。いつのまにか、そんな時間になってしまっていたようだ。これから夕飯を食べて家に帰っても、十一時頃になる。明日の出勤はどうなるのかも分からない。
「……泊まっていこうかな」
「ん、わかった。これ、置いてくるね」
そう言い、美咲はたたんだ服を持って部屋を出た。
美咲は洗濯かごの中にしまうと、深くため息を吐いた。
なんで、期待させるような事を黒崎は言うのだろうか。最初は、もっとこの人の事を知りたい。ただ、それだけなのに、その次は友達になりたい。親友になりたい。恋人になりたいと望んでしまう。望んでしまうから、心が痛いのだろう。
「夕飯できたぞー!」
リビングに戻ってくると、ルカが呼ぶところだった。
後片付けはほとんど済んでいるようで、食卓の上にのっている食器以外の調理器具はしまわれている。
食器には、野菜がたくさんはいったスープご飯とあたたかい温野菜がちょこんとのっている。松本さんは、調理器具をふいてしまっていた。
「……おいしそう」
「もう、時間も遅いから軽めにしといた」
紅茶を飲みながら、嬉しそうな口調でルカはそう答えた。調理器具をしまい終わった松本さんがルカに声をかける。
「新山さん、手際がいいですね♪」
「一人暮らしだから、節約しないと」
リビングに戻ってきた黒崎は、食卓についた。
「この前、喫茶店に来た人と一緒に住んでいるって噂がありますよね」
「どこで、聞いた?一人暮らしだよ」
「マスターが、女子高校生のお客さんに聞いたそうですよ」
「あぁ、あの子か」
心当たりは一人いる。 情報屋を名乗っていて、マスターの事を聞いているボーイッシュな感じのあの子だろう。あまり関わりたくはないが…。と心の中でルカはつぶやく。
「でも、最近誰か泊まったりしているよね?何回か見かけた事があるかも」
コップに紅茶を入れて、一口飲みながら記憶をたどる。
確か、仕事帰りだから七時頃だろうか。
隣のルカが住んでいる部屋の前で、女性が待っているのを見かけた事がある。背が低くて、髪は茶髪、白いコートを着ていてブーツをはいていた。その翌朝、同じ格好の子がルカの部屋から出てきた。ルカに視線をむけると、それ以上しゃべるなと視線で抗議された。黒崎は興味を持ったようでにやりと意地悪く笑っている。
松本さんにいたっては目をキラキラさせている。
「どんな感じの人?」
「んー…どんなって、可愛いかんじ?」
「ふーん、可愛い感じの人が好みですか♪」
「……。みなさん、お願い、料理がさめるから食べてください。質問なら、食べ終わった後にうけるから」
あきらめてため息を吐き出しながら、ルカはそう言った。
食べ終わった後は、ルカの恋愛の話で盛り上がったという。
【6】
大型専門店街の喫茶店は、他のフードコートなどに比べて静かで落ち着いた空気が流れていた。ルカは、頬杖をついて目の前に座っている彼女を見る。
美咲と出会ったのは、もう5年前になる。俺が十九歳だった頃に、大学で出会った。付き合いは長い方だろうが、彼女が心から嬉しそうな表情を浮かべるのは、初めて見た気がする。
「……なに?」
「可愛いなと思っただけですよ」
そう言いながら、タンポポコーヒーを一口飲む。ただ、気持ちが伝わってしまっていただけ。付き合う事になっていないけど、傍にいるだけで嬉しく感じてしまう。その気持ちは、よく分かる。
可能性が0ではない事が、嬉しくも悲しくもある。
二人で会うのが、気まずく感じるから三人で出かけようと誘われたのは、あれから二ヶ月後だった。
そして、さっき専門店街に入っていたタロット占いで美咲が、占ってもらった。黒崎と美咲の相性はいいという結果が出た。こっそり占い師の方に聞いたところ、黒崎は自覚するのが怖いだけで、美咲の事が好きだという。それだけで、美咲は嬉しそうに笑っていた。
「ルカは、さらって言うのね。そういう事言うの、恥ずかしくないの?」
「恥ずかしくないよ、だって…本当の事だから」
「彼女がいたら、やきもちやきそう」
「いたら、ね。今のところはいませんから。…それで、美咲は黒崎とあの後何かあったの?」
「…ないわよ。何も」
何か、あったな、何か。じゃなきゃ、視線そらして顔を赤くして動揺しないだろう。
「そっか」
あの地震があった日、寝る場所がなかったため、夕飯を食べてしばらく話をしてから自分の家に松本さんを泊めた。だから、その後の事は知らない。
「はい、お冷や」
「ありがとう」
水を取りに行っていた黒崎が戻ってきた。
黒崎はいたっていつも通り。いや、少しだけ表情がやわらかくなっている。
「……ルカ、過去世って信じますか?」
「あるとは感じている」
「彩雲が言うには、過去会った事があるみたいです。美咲と、その、恋人に関係だったみたいで」
「そう。それで?」
「その頃の想いが夢で現れたみたいです。その話をしてくれた時に、彼に告白されました……その時に、友達としてしか付き合えないと断りました」
「そう」
ちらっと美咲に視線を向けると、驚いた様に目をかるく開いている。
彼とは、ね。すでに、友達としての付き合いしかできないと感じる自覚がある、という事なのだろう。そうでなければ、断ることもしなかったはずだ。二か月前の彼女なら。
「?」
美咲は不思議そうに指を口元にあてている。
きっと、頭の中は混乱しているのだろう。
彼は断られて美咲が断れていない。その事の示す意味を考えた答えを否定するけど、もどってくる答えは同じものしかはじき出さないからだ。たぶん。俺がふっと笑うと、「なによ」という視線を向けてくる。「いや、べつになにも」と仕草で返した。
「付き合いたい人ができました。恋人として」
「ふーん、自覚、できてよかったね?」
美咲に後半向けてそう言いながら、タンポポコーヒーを口に運ぶ。
「はい、正直なところ美咲をルカにとられるかと不安で」
「ルカと恋人になるなんて、ありえないわよ……」
「まぁ、それは冗談として。ルカがきっかけで気持ちに気づく事ができました。ありがとう」
「一歩前進だね」
「はい」
黒崎は、笑顔を浮かべた。
「ルカ、その視線はなに? 意地の悪い目つきは」
「なんでもありません」
二人から相談されているから両方の心が読めて面白い、なんて言ったらきっと俺は恋愛話でからわれるという仕返しをうけそうなので言わないでおいた。それでも、ニヤニヤしてしまうのは、とめられない。
他人というものが怖いと感じていた黒崎が、他人を好きだと自覚して、恋愛感情も自覚したのが嬉しいのもあるが、この先の展開が気になる。
「それで? 地震があったあの日、何かあったの? お二人さん?」
「「ありません」」
声が見事にそろった。あまり、からかいすぎてもだめかと思い、視線をそらす。
最近、黒崎の表情が優しくなっている。
ファンが増えたのも美咲が原因だ。彼女が黒崎の表情をやわらげたから。まぁ、まだ、告白とかの進展はなさそう。
「……他人の事より、自分はどうなのですか?」
「そうよ、ルカはあの人と進展あるの?」
「ありませんよ、残念ながら……その信じていない視線を向けられても、ないものはないです。それに、俺の恋話よりも、お二人さんの恋話の方がみなさん知りたいと思う」
「みなさんって、誰の事ですか?」
「あ、いやなんでもない。こっちの話」
みなさんは、読者のみなさんの事です。とは言えないでしょう。
髪を茶色に染め、肩につくくらいの長さの女性店員が、俺たちのテーブルに近づいてくる。このお店の制服は、黒のズボンに白いワイシャツというシンプルなものだった。
幼さが残る顔から、高校生くらいだろう。
「お待たせいたしました。ご注文のドリンクをお持ちしました。アールグレイのお客様……」
黒崎に視線を向けると、何かに気付いたのか俺にも視線を向けてくる。
どこかで見かけた事のある顔。どこで、見かけたのか記憶をたどってみる。
「……失礼しました。ダージリンのお客様、以上でご注文はお揃いでしょうか。ごゆっくり」
「あ、思い出した。君、お嬢様の友達だ。前にお店来ていた」
「お嬢様?」
「マスターの大事な人です」
「なるほど」
「……よく、覚えていますね」
「たまたま、ね。ここでバイトしているの?」
「はい、二年のうちにお金を貯めておきたくて。では、失礼します」
そう言って、女性の店員―琴音はその場を立ち去った。
黒崎と美咲は、それぞれ紅茶に口をつけている。
「美味しい」
「美味しいですね」
二人の恋は、一歩ずつ進んでいて微笑ましい。
俺の恋は進ませたくないのか、諦めているところがある。
だから、他人の恋愛が面白い。
「そういえば、ルカが紅茶に興味持ったのって、あの人が関係しているの?」
「あぁ、関係あるよ」
彼女が好きだったから、覚えた。それだけの事だから。
「人を好きになるって、いろんな力になるよな。きっかけがあって好きになるけど、そのきっかけなんて、どんなものでもよくて。自分の気持ちが変わらないと感じたら、動くしかなくなる」
「そうだね」
「そうですね」
たぶん、二人が付き合うのは時間の問題だろう。
きっかけが過去の記憶でも、自分の気持ちが変わらないと感じたら、その気持ちは自分のものだ。過去の自分のものではない。だって、それがきっかけで出会っても何も起きない事もあるのだから。