2.危険な病と陰謀は気づかぬ内に進行しており
全てが静寂に満ちていた。此処はザウロニア大使館、トート大使の執務室。
この部屋の、いや、この大使館の主であるトートは意思の強そうな太い眉に少々整った顔立ちの男だ。その大柄で恰幅の良い身体は、彼が貴族制度の無いザウロニアおいて、他国における貴族に相当する地位、身分にあるのであろうと容易に思わせた。
つい先程まで、大使の働き振りを細かな囀りで告げた羽筆も、今は、その役目を終え筆立てに身を休めている。
今日一日の仕事を終えた彼は執務机に両肘をつけ、祈るように組んだ両手に額を預けながら待ち人の訪れを待っていた。
窓の外から丈夫の雄々しき雄叫びが聞こえ静寂を破る。大使館の庭では近衛隊が、明後日に女王を迎えて執り行われる巡礼祭にむけて訓練をしている。聞こえたのは訓練を終えた彼らの号令だろう。
浜風が涼しいとはいえ、この真夏に篝火を焚いて熱心なことだとトートは一人思った。
やがて、この部屋を訪ねるであろう男が、その篝火よりも暑苦しい男だということに気がつくと、そのおかしさに思わず口元が緩んだ。
近衛隊は女王直属の兵士で、巡礼中、総兵力五百人の半分は宮殿の警備に残り、残り半分が女王の巡礼に同行する。
先程まで大使館の庭で汗水たらして頑張っていた連中は、巡礼祭の約一週間ほど前に遣わされた先遣隊五十名だ。
彼ら――近衛隊が巡礼祭を警備するのだが、女王の魔法で通常の数倍以上の速度で進軍する為、到着時は何時もの何倍も疲労している状態だ。まず、その疲労を労う為に一日が潰れる。
翌日、体力の消耗を極力減らすべく、軽装で進軍してきた近衛隊は、武具類が届くまでに大使館の設備を確認し、警備計画を立てつつ野営地を設営する。
野営地の設営が終わる頃には女王も魔力が回復し、先遣隊が必要とするであろう武具礼服等を魔法で送ってくる。それから数日経過して女王一行が到着する段取りだ。
そのおかげで本格的な訓練を開始することができるのが、何時も巡礼祭の2、3日前になってしまう。なんとも慌しい限りだが、この手順で千年以上、幾度も生まれ変わりを経ながらも、女王が無事に巡礼を続けることができたことも歴史的事実である。
今回の神面都市における巡礼祭も全てにおいて順調であるかのように思えたが、それは思い違いのようだ。
依りによって自分が女王から預かった、この神面都市を中心に女王の威光を損ねかねない何かが起こっているらしい。
トートはその何かを知るべく、全ての執務が終わった後も待ち人を待っていた。
ドアを軽くノックする音が聞こえ、執務室を警護する守衛の声が聞こえた。
「失礼します!近衛隊長セムト様がお出でです」
トートは短い溜息を一つ吐いた後、顔を上げて答えた。
「ようやく来たか、とおせ」
金属鎧に身を包んだ無骨な顔の男、守衛のメンチュが先導して一人の男を通した。
部屋に通されたのは、ゆったりとしたザウロニアの礼服が、肌に張り付いているのかと思えるぐらい筋骨逞しい青年だ。
彼の名はセムト、まさに女王の身辺を警護する親衛隊長の名に相応しい肉体の持ち主だ。顔は身体に似合わず細面系統の美形だが、残念なことに頬骨がでていて、やや貧相な顔つきであった。まぁ、死者の国らしい容貌といえば美点になるかもしれない。
この死者の女王に仕えるに相応しい面構えの男こそ、今、神面都市において進行している危機を未然に防ぐべく、生命を燃やして尽力している唯一の男であった。
メンチュに恭しく促されながら、部屋に通されたセムトは、執務机の正面までくると深く一礼した。
「夜分遅く失礼します、トート大使」
しかし、トートは返礼することなく椅子から立ち上がり、収納棚から酒瓶とグラスをとりだすと
「ご苦労、セムト君。とりあえずかけたまえ、一杯やろうじゃないか」
軽く首を振って、部屋に運び込まれた二人掛けの食卓を指し示す。トートの気さくな語り掛けに、セムトと呼ばれた青年は、一瞬、呆気に取られつつも
「ですが・・・」と戸惑い躊躇するが、そんなセムトには構わず、トートは手ずから食卓の椅子を引きながら続ける。
「ささっ、椅子にかけたまえ。今日は、当地に於ける最高の郷土料理をお眼にかけよう」
「しかし、私は職務で」
トートは食卓にグラスを置いた後、尚も躊躇する親衛隊長を真剣な眼差しで見つめ
「もう、この土地の美味いものは食べたのか?」
「いえ、まっ、まだです」
「ならば尚更だ。早くかけたまえ」
セムトの正直な答えにトートは満面の笑みで返し杯に酒を注ぐ。杯が酒に満たされると同時に、扉の向こうにいる守衛二人にトートが大声で呼びかけた。
「おい!君達、そろそろ夜食にでも行ってきたまえ!」
扉が開き先程のメンチュと、もう一人、双子の弟モンチュが姿を現した。この片一方が鏡に映した鏡像では?と思いたくなるくらい似ている双子は、女王直属の近衛隊ではない。
大使館付きの警備兵で数少ない大使直属の部下だ。執務室警備が主な任務であり、要するに大使の子飼いである。
「「しかし、大使!もし賊が入りこめば」」
メンチュとモンチュは双子らしく声を揃えて鼻息荒く抗議するが大使は冷静に返す。
「心配いらんよ。ここには親衛隊長殿がおるし、なにより此の部屋には魔法が一切とどかん」
高級住宅街である頭教区東部には各国の大使館が居を構えている。その多くは大使館に向って放たれた矢や岩、魔術によって降ってきた隕石などを押し返す射返しの魔術と、呪術など、それら以外の魔術や奇跡を防ぐ各種結界に守られている。
だが、それも建物の中に侵入した者が魔術や奇跡を行使する妨げにはならない。
魔術や奇跡は、空気中にある魔力元素と考えられているものと引き換えに発現する。勿論、魔力元素が存在しなければ、それらが発現する事は無い。
この魔力元素とは如何なるものかと研究をしてきた魔術師達の手により、魔力元素を吸収したり、遮断する特色をもつ物質が発見され、人工的に生成できるようになった。
これらを使って部屋など覆い--例えば特定の魔術を吸収する素材に囲まれた部屋であれば、自分が苦手とする精神的な魔術、人を呪い心を蝕む魔術や、相手の精神を乗っ取る魔術などを防ぎつつ、相手の肉体を凍りつける魔術で、一方的に相手を傷つけることも可能だ。素材が魔力を吸収し続ける限りは。
建物によっては、素材が魔力元素を限界まで吸収しないように、自動的に明かりが灯る魔術や、空気を清浄化する魔術が、小まめに発動するように設定されているものもある。
一方で、魔力元素を遮断する素材は単純だ。この素材は魔力元素を消滅させ、遮断するだけなので限界は無い。
例えば、この素材を組み込んで家を建てれば、一切の魔力元素が遮断され、屋内で魔術、奇跡が使えないことは疎か、建物めがけて魔術による火球を放てば、火球が建物に触れるか触れないかの距離に至った瞬間に自然消滅する現象を目撃することができるだろう。
いうなれば魔術などによる支援が一切期待できない部屋で、主人を守る為に雇われたメンチュとモンチュという双子の兄弟が、かなりの手錬だということが容易に推測できる。
また、この部屋はあらゆる魔術を拒む。例え魔術を用いて最高の調理をしたところで、部屋に運び込まれれば魔術は消え失せ元の味に戻ってしまう。
この一切の誤魔化しが効かない部屋の主であるトートに認められた料理こそ、至上最高の料理といえるだろう。
トートの返答にメンチュとモンチュも納得がいったようで、花崗岩が清々しい表情すれば、こうなるのではと思えるような顔つきになった。
「それならば我々も安心して食事に行けます。ではっ!」
と、兄のメンチュが答えてから、二人は敬礼をし、去ろうとするが
「待ってくれ!ついでだが表で残務処理をしている親衛隊にも上がるように伝えてくれ!」
「「ハッ!かしこまりました!」」
親衛隊長の急な頼みに、すかさず返した二人の返答は息一つずれず、さすが双子といった感じであった。