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第6話 神に弓を引くと決めた日

文化・風習についての話です。

 私、今川義元が、桶狭間だったか田楽狭間だったかで討ち取られて、このクレアシオンという世に、オドレイ・フランドルとして生まれ落ちて早5年。

 日の本の世と違い、ここでの暮らしは勝手が違う為に色々と苦労したが、幸い幼子だった為に許された。


 年が明けると歳をとるのではなく、誕生日なる生まれ落ちた日が経過すると歳を取るというしきたりらし。誕生日や祝いの日には牛や鳥、豚なる動物の肉を食す。まぁ祝いの日でなくとも肉を食す時はあるが…。


ワカメ・昆布・海苔や、猿や犬などの肉はない。汁も薄いが、味わいがあってそれはそれでいい。


 麦を粉にしてそれを丸めたパンなるものを米の如くに食べる。時々雲の如く柔らかいものが出てくるが、基本干し肉の如く固く噛みごたえのあるパンを食す。

 シチューなる牛やヤギの乳を使った汁…いや、あれはもはや汁ではない。乳煮と共に食べる。乳煮の液体につけると容易く食べる事ができる。


 箸はなく、もっぱら素手で食べる。なんと野蛮な事か…念入りに手を洗わなければ食す事ができぬ事実に、私は自家製の箸を作ることにした。


 幸い木はなんとかなった。だが問題は、なれぬ小刀での細工の果てに箸らしい形にして、これで完成とおもった瞬間である。


 「漆がない」


そう、漆がない。

 明や日の本とは違い、ここには漆そのものがない。

だが、それは些細な事である。

 戦国の世でも、農民や位の低き者は装飾もない箸で食べている。

ちょっとササクレが痛いが、なに、かえって耐性が付く。


 米がないのも地味につらい。

白米ではなくてもいい。時々でいいから玄米でも白米でもいいので食べたい。

西洋である。この際贅沢は言わぬ、玄米でもいいから食べたい。


あった。米があった。誠か。


「これじゃない」

しょっぱい。塩が入っている。なぜ塩を入れて炊く?いや違う。炊くのではない、煮ている!?

 しかも主食ではない。副菜らしい。形もなんか日の本より長細い気がするが…しかしこれは米だ。白米にされている分、救われている。

 それに、煮られた米も面食らったが、塩の粥と思えばなんの事はない。

なんでも煮た米をそのまま食すのは腹下しの薬として用いる事らしい。何たることか。


それどころか隣国のヴェルト帝国ではこれを牛の乳で炊き食べると言う、オエー。


ってそれお釈迦様が悟りを開いた直後に食べた乳粥ではないか。



 と、まぁ前座はここまでである。


雪隠へ行く。ここではトイレという。

 穴がある。大分深い。


日の本であるならば、貯める物である。汲み取る城の者が取り扱う商人に売り、大金ではないが、それでも金となって農村へ売られ、そして肥料となる。


 だが、ここではそれがない。

 「なぜじゃ?」

問う。皆、一瞬の間がある。そして口々に言う。

 「「な ん で 使 う の ?」」

なんでも、人糞を使うことは神聖教の教えに反するもので、もっぱら牛や馬の糞を畑に使うらしい。


 館での雪隠の真下に豚小屋があり、餌となるらしい。豚とはどんな生き物だ。


 だが人糞を肥やしとして使わないとなると取れ高も変わるのではないだろうか?…ここは麦の為にどうなるかは分からぬが。


 さて、雪隠の事は言った。

しかしながら次の問題は甚だ厄介である。なにせそういう習慣であるのだから厄介である。

 当初は見間違いかと、見えぬ所でやっているとおもった。自由に使える水がないのかとも思うた。だが、それ以上に好んでいないどころか嫌ってる節すらある。


そう、なぜ。なぜこの者たちは


 「どうして風呂に入らないのじゃああああああああああああ」

叫ぶ。夕日に向かって叫ぶ。誰もいない場所で叫ぶ。きっとその時の私は血の涙を流していたであろう。


 そう、この者たち、風呂に全然入らないのだ。

風呂と言っても何も湯船に入る事でもない。それは日の本でも稀である。温泉であればそれも叶うが…それは湯治なので、大抵は足元に湯を張っただけの蒸し風呂が主流である。


 それも毎日ではなく、7日に一度。10日に一度。1ヶ月に一度。人それぞれではあるが、寺で銭を払って農民でも入れるものである。

 駿河に居た頃はよく寺へ行き蒸し風呂や温泉で汗を流した後に富士の山を見ながら休むという事をよくやっていた。懐かしい。


 だが、この者どもは水浴びすらしない。なんでも水や湯に触れると病になると言われている。

ふざけた事を…人糞を撒いた畑や田で採れた物を食しても大丈夫だし、湯を浴びても大丈夫である事を前世では赤子の頃よりわかりきっている。

 だが、病になる事は一理ある。唐宋時代に書かれた本によれば、温泉以外の入浴だと体内の気に悪影響を及ぼすと言われている。それでも10日に1回と入る事を奨励している。


 どうにかしなければなるまい。例えこの世界の神に逆らう事であろうとも、なんとしてもこの2つだけはどうにかするべきであろう。


 人糞の場合、館でならそれでもいいが、民達…町や村ではつまり人糞は外に打ち捨てられている。それでは病になるべくそうしているような物だ。京では雪隠の数が足りずに路上に打ち捨てられていると聞いたが、それでも今は違っていたらしい。

 入浴にしても、私が平安の世の如くの儀式色の色濃い世に生まれたのならともかく、大抵の民が寺へ行けば銭を払えば風呂に入れてくれる戦国の世で育った私としては、見て見ぬ事ができぬ。臭くてかなわん!!!



湯が病にならぬという証明は難しいが、ならぬという事実がある以上、証明できる筈だ。当主となってもすぐにはできぬが、それでもいつの日かきっと、きっと必ずやり遂げて見せる。それがこの世の神に弓引くことになろうとも。


 「お、オドレイ様~やめてください~」

 「よいではないか。よいではないか」

そんな訳で今日も今日とてクラリエルと共に近くの小川で水浴びである。

日本人はご飯とトイレにうるさいので、ついカッとなってやった。後悔はない。

次回は8月の10日に書こうと思います。


8月21日追記:江戸時代でも1ヶ月に1回ぐらいしかお風呂に入ってなかったなう。でも気にしたらシチュー引き回しでござる。

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