第9話 名画紹介「宮廷の侍女たち」
世界一の絵画は何かと問われたとき、決まって挙がる名画たちがある。
バロック期におけるオランダの巨匠レンブラント・ファン・レインが描いた躍動感あふれる集団肖像画「夜警」。
輪郭や陰影の細部に捉われず、空間と時間の変化までも表現した印象派画家クロード・モネの「睡蓮」。
複数の視点をひとつのカンバスに再構築する描画形態キュビズムの原点、パブロ・ピカソの「アビニョンの娘たち」等々。
そのなかでも頭ひとつ出ている名画がスペインの画家ディエゴ・ベラスケスの描いた「宮廷の侍女たち」である。
スペインが世界最大の版図を誇った17世紀、ときの国王フェリペ4世の宮廷画家であった彼は、数多くの名画を世に送り出した。
とくに王族の肖像画は多作で、「宮廷の侍女たち」もそのひとつである。
「宮廷の侍女たち」の魅力は大きく分けてふたつある。
ひとつ目は構図の妙。
3メートル四方の大きな絵画の中心には、フェリペ4世の愛娘マルガリータ姫が純白のドレスを身にまとい、侍女にかしずかれた状態で佇んでおり、傍らには画架に立てかけたカンバスを隔てて、こちらを見ながら描画に勤しむベラスケス本人がいる。
つまりこの作品は、鑑賞者である我々を題材にして絵を描いているベラスケスと、その様子をとなりで見守るマルガリータ姫という非常に面白い構図となっている。
識者の中には、この絵はベラスケスがフェリペ4世夫妻の肖像画を描いていて、鑑賞者は王夫妻の視点からこの絵を見ているのだと主張する者がいる。
しかしそれは解釈の飛躍と言わざるを得ない。
たとえば画面奥手の壁に鏡があって国王夫妻が写りこんでいるような描写があれば信憑性も出てくるが、室内は壁も見えないほど多くの絵で埋め尽くされている。
ベラスケスが多作ゆえか、マルガリータ姫がたきつけているのか不明だが、侍女たちがせかせかとせわしなく部屋から運び出しても間に合っていない様子が描かれている事から、ベラスケスがものすさまじい速度で絵を完成させている状況がうかがえる。
そして、それら大量の絵、つまり絵画内絵画の存在こそが、「宮廷の侍女たち」のふたつ目の魅力である。
優に百を超える絵画内絵画を仔細に観察してみると実に刺激的な発見がある。
17世紀には存在するはずのない自動車に似た造形や、飛行機、戦車、潜水艦、はてはサグラダファミリアそっくりの建築物まで描かれている。
また、肖像画にも同様の現象があり、ドン・キホーテを著したセルバンテスや独裁者フランシスコ・フランコ。名曲「黒い瞳のナタリー」の歌手フリオ・イグレシアスなど、スペインを中心とした有名人に瓜二つの顔が散見される。
これらが単なる偶然の一致であることは当然としても(そう考えるほかない)、「宮廷の侍女たち」に人々を引き付ける不思議な魅力を加味しているのは確かである。
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今よりずっと幼かった。
抜けるような青空の下、ハネツグは車の後部座席から過ぎてゆく街並みを眺めていた。車両送迎は彼の通う学校では普通のことだが、前後に警護車両までつくのはハイネッケの人間だけだろう。
十字路に差し掛かったとき突然大型車に道を塞がれ、急ブレーキでつんのめる。
「ぼっちゃん、伏せてください」
となりに座るクロガネが冷静に言った。後進をはじめた車列に銃弾が豪雨のように降り注ぐ。
ハネツグは座席にぴたりと顔をつけた。誘拐ではない、殺しにきてると子供ながら思った。
クロガネはハネツグに覆いかぶさるような格好で、弾丸でクモの巣模様になった窓から外を窺う。
突然、フロントガラスが血しぶきで染まった。運転手が頭をガクリと前に倒し、クラクションを鳴らしながら停車する。
クロガネはドアを開けて外へ出ると同時にホルスターから銃を抜き、あたりを確認したあと、ハネツグに手をのばす。
「後ろの車に移りましょう」
クロガネは微笑んでいた。
修羅場にあってこの余裕。クロガネのそばにいれば銃弾だって避けて通る。絶対に守ってくれる。ハネツグはそう確信していた。
手を引かれて通りに出ると、銃弾の飛び交うなか、車外で応戦している味方警護隊の脇を抜けて後続車まで走った。
ドアまでもう少しの距離に来たとき、予期せぬ角度から目出し帽の男が現れて銃を構えるのをハネツグは見た。
直後、クロガネが視界を遮るように立ち、何発かの銃撃戦のあと、何事もなかったようにハネツグの背に手をあてて「さあ、お乗りください」と促す。
目出し帽の男は首から噴き出す血を両手で押さえ、のたうち回っていた。
ハネツグが後続車に飛び乗り、クロガネも後に続いてドアを閉めた。車は急いでUターンすると、猛烈に加速して現場をはなれた。
「ぼっちゃん、お怪我はありませんか?」
「おまえがいるんだ。怪我などするものか」
笑顔で答えたハネツグとは対照的にクロガネの表情はどこか虚ろで、つまむように背広を開くとワイシャツが真っ赤に染まっていた。
ハネツグは凍りつく。
「クロガネ、血が出てる」
自身を見下ろしたクロガネは、特に驚く様子もなくハネツグに視線を移した。
「敵がまだ潜んでいるかもしれません。一度、お屋敷に戻りましょう」
「それより早く病院に行かないと」
ハネツグは涙声で言った。頭の中に悲しい言葉が浮かぶ。
お前も死んでしまうのか?
父さんや母さんのように僕を置いていくのか?
クロガネはゆっくりシートに沈み込み、茫然と口を開く。
「ぼっちゃん、どちらに」
「ここにいる、手を握ってるだろ」
「お怪我は……」
「ないと言っている!だからもう喋るな、死んでしまう!」
「……よかった」
クロガネはいつもの笑みを浮かべた。
「お前が死んだらセネカはどうする?育ての親なんだろ?あいつひとりぽっちりになっちゃうぞ」
「……よかった」
クロガネの声ではない。気づくと彼のいたはずの場所にハネツグ自身が座っていた。
「死んだのが、僕ならよかった」
驚きで瞬きすると、今度はセネカに代わっていた。
クロガネの葬式のときに来ていた喪服姿の彼女は、幼かった当時の10歳で、黒いベールから少しだけ見えるそばかすまみれの大きな目がハネツグをじっと見つめる。
「死んだのが、ハネツグならよかった」




