第43話 モナリザの微笑み
リザは深くうなずき先を促す。
「ようやく財団から承認をもらえた。財団が留保していた父名義の資産と地位を相続して、僕はハイネッケ財閥の当主になった」
「それはおめでとう」ニッコリ笑って胸の前で小さく手を叩いた。
「じゃあ、手にしたお金で私を買い取ってよ。なんてね」
「フランス政府に打診はしてみた」
「ほんと?」
急に真顔になってハネツグに顔を近づけた。
「で、どうだった?」
「断られた」
リザはがっくり椅子に背を預けたあと「まあ、当然か」とつぶやいて口元に微かな笑みを浮かべる。
「これでも私、フランスの至宝ですから、お金で価値を測れないタイプなの」
「そうかなあ、国家予算と同額を提示したらグラついてたよ」
「それは……」眉に皺をつくったリザは、小声の早口で、
「ちょっと文句を言っておかないとだわ」
「でも展覧会はできると思うんだ。リザが良ければだけど、僕の国にしばらく滞在してほしい。あなたのファンは僕の国にも大勢いる」
「それ楽しそう、行く行く」
「それと……」とゆっくりつづける。
「それと、なに?」
「僕とリザの関係を調べた」
「そんなもの、私に訊けばいいじゃない」
「僕なりに証拠を集めて確信を得たかった。たぶんマレーネも同じ事をしたんだと思う」
「彼女、典礼秘跡省にも忍び込んでたらしいから、たまたま手にした機密資料でも読んで事の真相を知ったのでしょう」
「うすうす察してはいたけれど、僕の祖先にイタリア人がいた。母方の曽祖父だ」
しばらくの間、リザは物思いに沈むように虚空を見つめた。ハネツグもそんな彼女をじっと待った。
するとやがて「もう100年以上も昔になるのね」と懐かしむように目を細めた。
「最初の世界大戦が始まる少し前だったかしら。代わり映えのない生活に嫌気がさして、わたし、ルーブル美術館から家出したの。戻るつもりはなかったから、カンバスも持って行った」
カンバスも……。
そのときハネツグの脳裏に浮かんだのはモナリザ盗難事件だった。
1911年8月21日、ルーブル美術館から「モナリザ」が盗まれた。それから2年間、消息不明の状態が続いたあと泥棒は逮捕され「モナリザ」も無事に美術館へ戻ってきた。
というのが世間一般に知られているモナリザ盗難事件の全容だけれど、実のところ、あれは盗まれたんじゃなくて、リザ本人の意志による家出だったってことか。
真夜中にピクトリカから飛び出したリザが、自分のカンバスを壁から外して小脇に抱え、スタスタその場を歩き去る様子を想像して、ハネツグはなんとも不思議な気分になった。
「それからあちこち遊び歩いて故郷のイタリアにたどり着いた」
「そこでとある男性と恋に落ちた」
合いの手を入れるように言葉を挟んだハネツグに向かって、リザは微笑んだ。
「ハネツグを見てると彼を思い出す。こうやって正面から見るとそっくりよ」
「そして子供を授かった。ヒストリカの血とピクトリカの絵具が合わさった男の子。つまり僕の曽祖父」
「あれが幸せの絶頂だった。そのあとすぐドミニコ僧団と名画たちに見つかって、子供と引き離された。そしてひとりピクトリカに戻された。家出中、ドミニコ僧団が裏で細工して、私は盗まれたってことになっていた」
「イタリアで封印絵画のある家を突き止めたのも、扉の鍵を開けてガイセリクを解き放ったのも、僕が無自覚で行ったことだ。なぜなら僕はリザの子孫であり、僕の血管にはレオナルド・ダ・ヴィンチの絵具が流れてるから」
リザはワイングラスを傾けて揺れる水面に目を落とす。しかしその眼差しはなにものにも向けられておらず、頭に浮かべた遠い記憶を眺めているようだった。
「あのとき以来、私の時間は止まったままだと思ってた。だからハネツグを見たときはとても驚いた。だって、あなたの中に時間の流れている私を見つけたんだもの」
リザは席を立ち通路まで歩いてから、腰をひねってハネツグに手をのばす。
「来て、私の家族を名画たちに紹介したい」
ハネツグが隣に来るのを待って、ふたりはモナリザの間を抜けた。そして両側に絵画が延々と展示されている直線の回廊グランド・ギャラリーへとくり出してゆく。
平穏と静寂のなか、木目の床を踏むふたりの靴音だけが聞こえる。
「ところでセネカは何してるの?」
「一緒にパリに来てる」
ちょうど良い機会ってそういうことか。
「誘ったんだけど、家族団らんのひと時に水を差したくないってホテルに残った」
「あら、気の利く娘ね」
セネカ。彼女をどうしたものかしら。
ガイセリクが守護神みたいになってるから、美女画紛争のとき、私の絵を壊しにきた若者みたくお手軽に殴り殺せるとは思えない。とはいえ可愛いハネツグをあんな小娘にみすみす奪われるのも癪だ。
ふと気づくとハネツグがリザの首元に顔を近づけていた。
反射的に、なに? と身体を引く。
「リザの匂い」
「やだわたし絵具くさい?」
「そうじゃなくて甘くていい匂い。それにとても懐かしい。幼い頃、母さんが僕を抱いてくれたとき、こんな匂いがした」
その言葉でリザの顔が一気に沸騰する。
「んじゃあ、ずっとくっついてなさい!」
弾ける心を大声に変えて、ハネツグの肩をぐいっと引きよせた。
「ちょっと転んじゃう!」
「さて、どの名画から紹介しようかしら。ルーブル美術館は広いわよ」
最期までお付き合いいただきありがとうございました。
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