第42話 セネカ、ほとんど神になる
深夜のルーブル美術館。
ドゥノワ翼2階のモナリザ展示室に小ぶりなテーブルをひとつ置いて、リザが食事をしている。
彼女にとって食事は生存の手段ではなく、それ自体が目的であるがゆえの儀式めいた丁寧さをもってナイフとフォークを運ぶ。
服装はピクトリカ仕様のレースのドレスに戻り、髪も真ん中から分けた黒髪ロングに直した。照明を抑えた室内はとても静かで、リザの立てる食器の音が時おり聞こえる程度だ。
ナプキンで口を拭いつつ視線をあげたタイミングで、何の前触れもなく目の前にセネカが現れた。
リザはしばらく動けなかった。
意表をつく接近に気が動転していたし、加えてセネカの様子もかなり妙な感じだった。
身体は床から1メートルほどの中空に留まり、癖毛の髪が水中にいるみたいにたゆたっている。
纏う白い貫頭衣にしても、異教の神々を模した刺繍があちこちに施され、その向こうで均整のとれた裸体が紙幣のすかしのように浮かび上がっている。
おまけに顔は眠たげな無表情。
「セネカ、よね?」
「私は君を知っているし、君も私を知っている。しかし相対するのは初めてだ」
話し方もおかしい。身体はセネカでも中身は明らかに別人だ。
可能性があるとすればガイセリクだが、彼は死んでいる。やっぱり誰だか分からない。
「かつて、死を恐れた私の感情は自我を持ち、私の肉体を乗っ取ってこの世界に暗黒時代をもたらした。しかしその感情は肉体とともに父上によって殺され、父上もまたゴヤの絵に封印された。漁夫の利を得たことで私は初めて自由を手に入れた」
「じゃあ、あなたが本当のガイセリクってこと?」
「初めまして、ゲラルディーニのご令嬢」
目で牽制しながらゆっくり腰を浮かせるリザに向かって、ガイセリクは首を振る。
「ここに来たのは争うためではない。仮にそうなったとして勝つのは余裕で私だが、セネカの身体に傷がついたら大変だ。なにせ無断で間借りしてるからね」
「だったら何の用?」
「ちょうど良い機会だから警告をしに来たのだ。ヒストリカの住人とピクトリカの住人は無闇に交わるべきではない。ハネツグの関係者に薄命が多いのは歴史が彼らの存在を許さないからだ。遠からずハネツグにも死の運命が襲いかかる」
「私が守るから大丈夫。私の絵にいれば彼も歴史の一部になり修正は働かない」
「良策に聞こえるが、同時にピクトリカでハネツグと永遠の時を過ごしたいという目論見も透けて見える」
「いいじゃない。ヒストリカの住人はことのほか永遠を好むし」
「ハネツグはヒストリカで生まれそこで育った。そしてセネカを愛している。私はふたりが結ばれて子を産み、繁栄することを望んでいる。時間の止まったピクトリカではできないことだ」
「それだとハネツグは守れない」
「セネカがそばにいる。危なっかしいけど聖人並みに清らかな娘だよ。それに私も彼女の中からハネツグを監視して、危機が迫れば即座に排除する。ふたりは今、新たな目で互いを見ている。これから先一緒にいる時間も増えるだろう」
抑揚なく語るガイセリクの背後から金色の大蛇が姿を現し、彼のまわりをゆらゆらと螺旋状に回りはじめた。ガイセリクはそんな大蛇の頭をやさしくなでる。
「この子もセネカに恭順を示している。君の出る幕はない」
大蛇が首を背後に巡らして、泳ぐように通路の闇に消えてゆき、顔のそばに来た尻尾の端をガイセリクがつかんだ。
「ハネツグはセネカの所有物だ。ピクトリカに連れ去ろうとするなら、私が許さない。それだけは覚えておいてほしい」
そう言い残すと、ガイセリクは大蛇に引かれる形で闇の中へ消えていった。
室内は少し前と同じ静謐を取り戻す。
「なにあれ、ちょうど良い機会だから警告しに来た?そんな警告要らないし、そもそも来なくて結構です」
すっかり興ざめしてしまい、食事を続ける気にもなれずナイフとフォークをテーブルに置いたとき、リザの耳に小さな足音が届いた。
それは徐々に音量を増して近づいてくる。直感で誰だか分かる。直感に頼らなくても足音で彼だと分かる。
リザは両手をテーブルに乗せ、最高のモナリザの微笑みを用意して正面の通路を見据える。
やがて薄暗い通路からスーツ姿の男性が現れた。
「ハネツグ、やっと来てくれたのね。さあ座って」と向かいの椅子を勧める。
「家の方で色々あって、遠出ができなかった」
そう言ってハネツグは椅子を引いて腰かけた。
「ワイン飲む? ヴィンテージ物がうんざりするほどあるの」
「いや、いい。食事の邪魔しちゃったかな」
「いま食べ終わったところ、そもそも私たちには食事なんて不要だから。アルチンボルドの名画たちが魚やら野菜やら差し入れてくれるんで、手持ち無沙汰の好奇心で料理してるだけ。たまに『最後の晩餐』にもお裾分けしてるのよ。テーマがテーマだから弟子たちは食事どころじゃないけど、イエスはパクパク食べてくれる」
そこでリザはハネツグの奇妙な視線に気づき「どうしたの?」と首をかしげる。ハネツグは頭を掻きながら、
「ごめん、僕の知ってるリザはパンカーだったから。あの格好を気に入ってたみたいだけど、やめたんだ」
「ルーブル館長に泣いて懇願されたから、仕方なく」
「今のリザと話してると、本当に『モナリザ』と話している感じがする。て、僕なに言ってんだろう」
「気にしないで、それヒストリカの住人にありがちな混乱だから」
「ルシファーはあれからどうなったの?」
「それがねえ」とリザは椅子に背中をあずける。
「わからないのよ。もし生きていれば百合のイエスと一緒にデッドランドにいると思うんだけど」
「そうか、ヘルマウスがないから行けないのか」
「それよりも名画たちの混乱がひどくてね。マルガちゃんは名画たちが自分の剣を奪おうとしたことがよっぽど頭にきたみたいで、ヘルマウスの破片を持って帰ったあと、プラド美術館を閉鎖しちゃったの。どうやらヘルマウスを縫い合わせて、自分たちだけで剣を取り戻そうとしてるみたい。
マリアンヌはマリアンヌで、晩餐のイエスが百合のイエスを解放したことに腹を立てて、彼のこと槍で突いちゃって、止めに入った他のイエスたちもプスプス刺しちゃって、聖痕だなんだって騒ぎになって……」
リザはそこまで言うと、手のひらを顔のまえで振って、止めましょう、こんな話、と自分の話を打ち切った。
「それよりも、何か理由があってここに来たんでしょう?」
そこでハネツグは一度咳払いをして椅子に座り直した。
「今日はリザに報告することがあってきた」




