第40話 血と運命と、それから救い
次に目を開けたとき、見えたのはヒストリカの空だった。
戻ってきたんだ。そう思ったら今度は身体が下降をはじめて背中から屋根に落ちた。ガイセリクの攻撃で追った傷の痛みも今さらのように加わり、いてて、と苦悶の表情で身体を起したとき、同じように腰を下ろしているセネカがとなりにいた。
なぜか頭のてっぺんから足先まで色とりどりの絵具に塗れた彼女は息がかかるほど近くて、目が合った。
絵具まみれのセネカと傷だらけのハネツグ、ふたりは互いの名前を心の中で呟いた。それから同じ言葉を口にした。
「お帰りなさい」
少し間を置いてセネカはくすぐったそうな顔をしながら、絵具と一緒に頬に張り付いたほつれ毛を耳のうしろに撫でつけた。
長いクセ毛のおかげで絵具の付着を免れた目のあたりに、幼い頃からあるそばかすを見つけたとき、ハネツグの胸に熱いものが込み上げてきた。
セネカ、と小さく呟きながら彼女に身を寄せた。しかし途中で動きを止め、今度は怯えるように目を伏せる。
「どうしたの? 」
セネカが不思議そうにハネツグの顔をのぞき込んだ。
「父さんも母さんも幼いころに亡くなって、それからずっと親代わりだったクロガネまで死んでしまった」
地面に目を落としたまま独白を繋げる。
「愛する人はみんな死んでしまう。そういう定めなんだという思いを頭から振り払うことができない」
セネカを助けられた事はハネツグの心に想像以上の安堵をもたらした。だからだろう、彼女との間に設けていた壁がすっかり消えていることに気づいていない。
「だから僕、一生懸命セネカを嫌いになんなきゃって思って、自分をあざむいてセネカに酷いことばかり言って……」
これ以上はいけないと理性が押さえつけても、従おうとしない感情は歯止めなく口から流れでて、それからあとは、もう止めようがなかった。
「どうしてだろう失ってばかりでさ。これでセネカまでいなくなったら」
涙に溢れる目でセネカを見つめた。
「この世界で、大切なものがひとつもなくなる」
言葉にすることで、かたくなに簿化してきた想いがだんだんはっきり形を帯びてくる。そしてついに、ハネツグの想いが混じり気ない言葉となった。
「僕、セネカが好きだ。大好きだから死なれたら困る……」
目をぎゅっと閉じて吐き出すように続ける。
「すっっごく困るんだあっ!」
耳に届いたその声をセネカは唇でゆっくりなぞる。ハネツグが好きって言ってくれた。戻ってきてよかった。
「あんたの気持ち、わかった」
セネカはしゃんと背筋をのばし、厳粛な表情でハネツグを見据える。
そして100%の確信を込めて宣言した。
「ハネツグが好きでいてくれるかぎり、私は死なない」
根拠はまったくわからない。そんなものないのかもしれない。
しかしこの瞬間、ハネツグにとってセネカは叶えられた願いそのものとなった。それは世界の姿がまるっきり違うものになったような、自分が生まれ変わったような衝撃だった。
「私が生き続けることで、あんたの運命を変えてあげる」
「……セネカ」
「なに、ハネツグ」と言い終える前にハネツグは勢いよくセネカを抱きしめた。そんなハネツグの背中に、セネカはためらいがちに腕を回す。でも口では気丈に、
「なに泣いてんの、情けないね」
それからハネツグは何度も彼女の名前を叫んだ。体感的には今までの人生で口にした回数を越えるくらい叫んだ。
死にたくなかった、というガイセリクの言葉が不意にハネツグの頭に浮かんだ。
ガイセリクは絶望的な運命から自分自身を救おうとした。セネカを救おうとした僕がその邪魔をした。セネカは僕を救おうとして自分の体に剣を刺した。
血と運命と、それから救い。
ハネツグの中でガイセリクへの怒りはすっかり消えていて、空いた部分をセネカの温もりが満たしてゆく。
みんな救われれば良かったのに。そんな風にさえ思った。
ハネツグの情熱的な抱擁に身を委ねながら、セネカは彼の肩越しに自分の右手を見た。
ふわっとした光を放つヘビが肘から手首にかけてとぐろを巻き、まるで新しい主人に忠誠を示すかのように細い舌で彼女の指先を舐めている。
マレーネが私に残してくれた可愛い従者。
この子がいれば私は死なない。私が死なないことでハネツグの運命を変えることができる。それにこの子を使えばクロガネ先生みたいにハネツグを守ることだってできる。
それが私の生きる理由で、マレーネに生かされた意味なんだ。
ハネツグに興味を示して身体に触れようとするヘビに向かって、セネカは姿を隠すよう命じる。
今はダメ、あとで紹介するから、
もう少しのあいだ、このままでいさせて。
セネカは再びハネツグの背中に手を回して、首と肩の間に顔をうずめた。




