第34話 インクでできた創生の海
ハネツグとガイセリクが「闇の奥」に入ったときから時間を数分さかのぼる。
腕にひどい怪我をしている。これは私の身体がヒストリカのプラド美術館で実際に経験していることなのだろうとセネカは思う。
痛みがないのはありがたいけれど、心と身体の関係が絶たれているってことだから喜んでもいられない。
やがて映像が溶けるように曖昧になってきて、次に見えたのは岩場の地面が急接近する様子だった。落下している。そしてぶつかる。と、硬直させた身体を何者かの腕がすっぽり包んだ。
「間に合った」
セネカを抱きかかえた17歳のハネツグが近すぎる距離で微笑んだ。セネカは真っ赤になって数秒肩をすくませたあと、
「ちょっ!」手足をばたつかせながらハネツグを引き離した。
「君はこういうのを望んでいたと思うのだけれど」
セネカはすぐに答えず、すまし顔で立ち上がって服装を整えた。
「見透かした物言いは嫌われるわよ。そもそもあんた本当のハネツグじゃないでしょ」
そう言って逸らした視線が周囲の景色を眺めた。
そこは草一本生えてないゴツゴツした場所で、少し下った先に砂浜の海岸が広がっている。空は厚い雲に覆われていて、遠くで光る雷光が辺りを一瞬コバルト色に変えたあと、再び灰色に戻るタイミングで雷鳴が届く。
「ここどこ?わたし知らない」
「ガイセリクの記憶の中だ。私が移動させた。君の身体を取り戻す鍵がここにある」
「海が黒く見える。天気のせいかな」
「あれは創生の海といって水が真っ黒なんだ」
「って事は、ここ地球じゃないよね。今更そんな事では驚かないけど。驚かない私にむしろ驚いてる感じだけど」
ハネツグは砂浜へ向かって岩場を下ってゆく。
「どこかに剣があるはずだ。名前はアダマンチンの剣。柄の部分が筆になっている」
「それがあればヒストリカに戻れるの?」
「ああ、ヒストリカにある君の身体も同じ剣を持っているから、剣を介して心と身体がつながる」
「なんだ、案外簡単じゃん」
「問題はそのあとさ。ヒストリカで君の身体を操っているガイセリクが猛反発するだろう」
「トコロテンみたいに出て行ってくれないんだ。じゃあどうすればいいの?」
「わからない」
「わからないって……」
「かつてガイセリクと身体を奪い合ったとき、私は負け、結果こうやって記憶の中でしか生きられない存在になってしまった。私でさえそうなのだから、君の場合はガイセリクに負けた瞬間自我が消失する。すなわち死ぬ」
文句を言おうとしたセネカだったが喉元で抑える。
「もともと分の悪い賭けだって言ってたものね」
「いた」と一言いってハネツグが指さした先には、波打ち際に立ち、海を見つめるひとりの大男がいた。
「あれがガイセリクだ」
「骸骨じゃなくなってる、てか、なんでここにいるの?」
「ここは奴の記憶だから当然いる」
ガイセリクの視線を追うと、海面からチラチラ顔を出す鈍い光があって、波に揺られながら海岸に近づいている。
「いいかい、あの光っているのがアダマンチンの剣だ。剣が打ち上げられたら、私がガイセリクの注意を引くから、その隙に剣を手に入れるんだ」
「あいつ強そうだけど大丈夫?よく見ると微妙に身体が光ってるし」
「全盛期のガイセリクなので当然強い。でも大丈夫、うまくやるよ。それでも稼げる時間は数秒程度だと思う。あとは君がなんとかするんだ」
そう言ってる間にアダマンチンの剣が砂浜に流れ着いた。
「まずは岩の影にでも隠れていてほしい。私が合図を送る。そうしたら一気に剣を取りに行ってくれ」
「わかった」
言われたとおり、セネカは手ごろな岩の向こう側に身を隠し、少し顔を出してハネツグに小さく手を振る。
そんな彼女に笑顔を見せてからハネツグは砂浜へ向かって行った。
身体の発光が収まり、ガイセリクは大きく息を吐いてから剣へと歩み寄る。が、何かに気づいたように数歩で立ち止まりゆっくり振り返る。
「追っ手だな。どうしてここが分かった?」
「以前もここに来たことがあってね、創生の海からアダマンチンの剣を創り、しかるのち別の世界へ高飛びしようと思って」
ガイセリクは顎を引いて目をパチクリさせた。
「なぜそこまで知っている?」と、威嚇するようにハネツグを睨みつける。
「生かして帰すわけにはいかんようだな」
ガイセリクは砂を蹴って走りながら両手の指を交差させ頭上に持っていく。直後、ハネツグの眼前で立ち止まると振り下ろした。
猛烈な攻撃を鼻先ギリギリで回避し、ハネツグは吹き上がる砂に身を隠す格好でガイセリクの背後に回り込む。
彼の腰に手を回して、大きく仰け反ると同時に身体をひねってガイセリクの巨体を砂にたたきつけた。そして空かさず組み伏せる。
「いまだっ!」
ハネツグの叫びを合図にセネカは岩から飛び出しアダマンチンの剣に向かって一目散に走った。
ハネツグから離れようともがくガイセリクの視界の端に、俊足で通り過ぎるセネカがチラリと映りこむ。
「目的は剣かっ!はなせっ!」




