第3話 ダヴィンチ回廊
佇む者も行き交う者も絵画から忽然と現れたリザに目を向けることはない。間違いなくそこにいる彼女を、みんなの意識が捉えていないのだ。
リザは一度目を閉じて、ヒストリカのひんやりとした空気と落ち着いた喧騒を肌で感じてからゆっくり目を開ける。そして左右に絵画の並ぶ展示室の連なりを歩き始める。
大理石の床と技巧を凝らした装飾のある天井。まるでお城のように贅を尽くした内装が施されているのは、実際にフランス王の居城だったからである。
絢爛豪華なアポロンの間やルネサンスからバロックまでの様式を混合させたナポレオン3世のアパルトマン、外壁にも凝ったレリーフが施され、偉人たちの彫刻が素知らぬ顔で並んでいる。
フランスの豊潤な文化と重厚な歴史を凝縮した一大モニュメント。ルーブル美術館はそれ自体が巨大な芸術品なのだ。
いまいる北側の館・リシュリュー翼から「モナリザ」が展示されている南のドゥノワ翼に向かうため、リザは階段を下り、地下の回廊でルーブルを縦断する。
途中、中庭の中央入口ホールに聳えるガラス板と鉄の骨組みでできたルーブルピラミッドを下から見上げつつ歩を進め、ドゥノワ翼に着いたら今度は階段を上がる。
それにしても、とリザは思う。
ここ100年で生じた来館者の多様化には目を見張るものがある。
人種も年齢も様々で、かつ鑑賞の方法も古来からある「普通に見る」から「写メを撮る」「動画で撮る」「写メで一緒に写る」、それらを複合させるなど多岐に渡る。
今昔の思いに自分だけ世間から取り残されたようなさみしさを感じた。
自分の展示室に戻ったリザは「モナリザ」(本人不在のためタイトルが「荒地」となっている)に慣れた動作で入っていった。
リザは手始めに長い髪をバッサリ切った。髪も金髪に染め、地味なルネサンス衣装も脱ぎ去って、胸や腰のラインがはっきりわかるレザージャケットとパンツといういで立ちに着替えた。
加えて毎日2万人を越える来館者をつぶさに観察しながら会得した当世風のメイクをちょい厚めに施す。
ヒストリカを歩き回るなんて久しぶりだから、いつもは出来ないぶっとんだ格好で羽を伸ばしてやろう。そんな気分だった。
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「モナリザ」の背景である荒涼とした土地を奥へ奥へと歩き、やがて見えてきたシオンの丘に建つ館に入る。
高い天井と延々とつづく廊下。ブーツの踵をカツカツ立てて広い歩幅で進んでゆくと、長机を囲んで食事の準備をしているイエスの弟子たちが目に入った。
そのひとり、マグダラのマリアがリザの足音に気づいて顔を上げた。そして「はーい」と手を上げたあと、その手を下げるのも忘れリザを舐めるように見た。
「なにその格好、やけに攻めてるわね」
「久しぶりに里帰りするから、キメてみようと思って」
「いい線いってるけど、男目線も考えないと」
「じゃあマリアはどんなのが良いっていうの?」
「無論、まっぱ」
やめとく、と即答し、リザは他の面々に目を通した。そして首をかしげた。
「イエスがいないようだけど」
「主はヒストリカに行かれたわ。もうすぐお戻りになると思う」
「リザも食べてく?」という誘いを丁重に断り、リザはいま自分がいる場所、「最後の晩餐」について思いをはせた。
絵画によって時間の概念はまちまちだ。リザは肖像画だから閉ざされた時間の一点に留まりつづける。一方、物語の場面を切り取った「最後の晩餐」は同じ瞬間を繰り返す。永遠に繰り返す。
リザがここを訪れると、決まって弟子たちはイエスの発した裏切り者の告発に恐れおののいている。
もっとも今回は主役のイエスがいないから穏やかな感じだ。恐らくヒストリカでは、この名画のタイトルが歴史の修正力で「いつもの晩餐」とかに変革されていることだろう。
「彼、ヒストリカに何しに行ったの?」
「少し前にバチカンの典礼秘跡省からドミニコ僧団の人がきて、彼らが主に言ったのよ。邪神の復活が迫っていると」
「邪神ってなに?」
「そのへんは僧団の人もよく分からないようで、主は心配だからヒストリカの様子を見てくるって出かけられた」
リザは「ふーん」と答えてマリアの言葉を考える。
典礼秘跡省とはカトリック教会がバチカンに設置している機密情報機関であり、名画たちとも太いパイプを持っている。
これまでもピクトリカと協力しながら異界から来た魔物をピクトリカに閉じ込めたり、逆にピクトリカから逃げ出した魔物を抹殺したりと、世界の影で活躍している。
彼らは情報収集力に長けていて、おかげで実行役が多いピクトリカは大きな損害もなく作戦を成功させてきた。そんな秘跡省が「よくわからない」と発したことはリザの知るかぎりなかったので不思議に思った。
とはいえ自分に関係したことではないし、晩餐のイエスが動いているのだから問題ないだろう。自分には泥棒を捕まえるという仕事がある。
「主に会ったら、早く戻るよう言って」
マリアの言葉に手を振ってこたえた。そして彼女は「いつもの晩餐」から抜け出てイタリア・ミラノの地を踏んだ。




