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絵画大戦  作者: 式守伊之助
第3章 フランシスコ・デ・ゴヤ作「闇の奥」
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第15話 ゴヤの未完の「闇の奥」

 プラド美術館2階の大通路でソファに身体を沈めながら、ハネツグは何度も深いため息をついた。


 ピクトリカ酔いなんてすぐに回復するだろうと高をくくっていたら、気づくと取り返しのつかない状態になっていて、最後はマルガリータの顔に滝のごとく嘔吐おうとしてしまった。


 ハネツグは重たげに立ち上がり館内を歩きはじめる。座っていてもなかなか回復しないから身体を動かそうと思ったのだ。


 足が床に触れてないみたいな感覚のままあてどもなくあちこち歩き、ときおり水を飲み、呼吸を整える。そうしてやっと落ち着いてきたと思ったら、今度は激しい自己嫌悪に襲われた。


 マルガリータから色よい返事を得るためリザが調子を合わせてくれたのに、僕がひどい醜態しゅうたいを演じたせいで駄目にしてしまった。僕のせいでセネカが遠退いた。

 ハネツグはうなりながら頭を抱えて屈みこむ。


「大丈夫よ」


 どこからか女性の声が聞こえてさっとあたりを見まわした。


 誰もいない。


 部屋にはハネツグひとり。ここは何の展示場なのかと表示を見て、ゴヤの展示室だとわかる。


 プラド美術館ではベラスケスと並ぶ二大巨頭として扱われている画家だ。


「マルガはあなたに興味を持った。いえ、好意を持ったというべきかしら」

「だれ?どこにいるの?」


 さらに注意深く周囲を観察して、ようやくそれが展示されている絵画から発せられているとわかる。


 奇妙な絵だった。ひと雨来そうな曇天どんてんの下、砂に首までかった犬が一匹いる。それだけだった。タイトルも見たまんま「砂に埋もれた犬」となってる。


「あなた、ハネツグ・ハイネッケでしょ」


 犬がハネツグを見て言った。鼻をペロッと舐める。


「どうして僕の名前を?」


「犬だから耳いいの。私はウィニー。あなたはヒストリカの住人なのに、私の声が聞こえて、私もあなたの声が聞こえる。これって素晴らしいことだし、滅多にないことなの。

 そこで私からお願いがあるのだけれど、ヒストリカの食べ物を持って絵に入ってくれないかしら。食べるって行為をしたことがないから、やってみたくて」


「ルーブルと違ってここ食べ物の持ち込みは禁止で……」

「知ってる?わたし実は砂山を登ってるの。でも同じくらいの速度で砂が落ちてきてるから、結局同じ場所にずっといることになる。どう? いま一生懸命足を前にだしてるのわかる? 」


「どうだろう、言われてみれば……」

「ナポレオンってマルガに無視されてるでしょ。あの人、スペインでいっぱい人を殺してるからなんだけど」


 ようやくハネツグは気づく。この犬、人の話を聞いてない。


 ハネツグはウィニーから距離をとった。だいぶ調子も良くなったし、リザたちの元へ戻ろうと思ったのだ。 

 

 そのときふと、となりの絵画に目がいった。片手で持てそうなほど小ぶりなカンバスが黒色一緒に塗りつぶされている。タイトルは「闇の奥」となっているが、これも絵なのか?


「ねえ、ウィニー」

「はいどうしたの? わたしがうらやましくなった? 犬の私が」


「となりのって絵なの?」

「半分正解で半分不正解。確かにパパが描いたものだけど、途中で放り出してしまったの。未完成なの。だからそれを絵と呼べるかは難しいとこね」


 真っ黒なのに未完成とはどういうことか。どこに何を加えるつもりだったんだろう。


「パパが言ってた。恐怖は描けたけど、あとふたつ、狂気と死は描けなかったって。三つ揃ったら完璧な絵になるらしいよ。でもあとふたつは経験してないから描けなかった。当然よね。狂ってしまったら絵は描けないし、死んだら筆も持てない」


 ハネツグは「闇の奥」をじっと見つめた。


「絵に入ってみれば?怖くなったら出ればいいんだし。お化け屋敷の気分で」


 吸い寄せられるように「闇の奥」に近づいて手を伸ばす。


 指が絵に触れる直前、駄目じゃあ!という切迫した叫びで我に帰った。

 いつの間にかハネツグのとなりにはマルガリータがいて、そばにベラスケス、リザやナポレオンもいた。


「ハネツグ、何しておる! 」

「恐怖ってどんなものか見てみようと思って」


「そいつに入ると恐怖に身体を縛られて、ヒストリカに戻れなくなってしまう」

「えっ?」ハネツグが問いかけるようにウィニーを見ると、彼女はサッと視線をらした。


 マルガリータは怒気をはらんだ声で「貴様じゃなあ?」とまし顔のウィニーを見てから「砂に埋もれた犬」に飛びこみ、ウィニーの首を思いっきり引っ張った。


「おまえを『闇の奥』に放り込んでやるわい!」

「し、知らないっ!わたし何も知らないって!」


「気をつけてハネツグ、あぶない絵画もあるから」


 リザがハネツグに寄り添って言った。


「入ったら戻れなくなる絵画なんてあるの?」

「ええ、一般に封印絵画と言われるもので、単に出られなくなるだけじゃなく、入った人がヒストリカに残した足跡を消してしまう恐ろしい絵画なの」


「もしかして、ガイセリクを閉じ込めてたのも封印絵画ってやつ?」

「そうよ、だから知らない絵画には無暗に触れないようにしてね」


 ハネツグは素直にうなずいたあと、何かに気づいたように小さくあっと声をあげた。


「僕が吐いちゃった件はどうなった? 」

「マルガちゃんは気にしてないみたい。久しぶりにお風呂に入る理由ができたって、入って今度は気分がすっきりしたって言って、前よりご機嫌になったわ。普通ならこうはいかないから、あなたのこと、だいぶ気に入ってるみたい」

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