第9話:昭和の帳簿と、黒川税理士の驚愕
1965年(昭和40年)の秋。
日本は「いざなぎ景気」と呼ばれる長期好況の波に乗り、庶民の生活にもカラーテレビやクーラー、マイカーといった「新種の神器(3C)」が普及し始めようとしていた。
だが、俺(大神将太・四歳)の父である大神将が社長を務める「大神建設」は、世間のそんな浮かれた空気とは無縁の、泥臭く、そして極めて奇妙な経営状態にあった。
俺が亡き母・幸子の霊を装って「嫉妬の恐ろしさ」を説き、「外では貧乏社長を演じろ」と厳命して以来、父さんの演技は日に日に堂に入ったものとなっていた。
普段は社長であるにもかかわらず、一番ボロボロのニッカポッカと地下足袋を身につけ、得意先や元請けの前では「いやぁ、やり繰りして、職人を食わせるだけで精一杯ですよ」と頭を掻き、見事なまでに「腕は立つが商売下手な貧乏社長」のレッテルを貼られることに成功していた。
だが、その裏では、俺の「ブルジョワな食生活」のため、父は週に二度、遠方の銀座まで赴き、背広にロイド眼鏡という変装姿で高級食材を買い込み、古いオート三輪の荷台を改造した隠しボックスに隠して持ち帰るという、涙ぐましいカモフラージュ買い出しを決行していた。
そして今日は、その買い出しの足で、月に一度の重要な「報告会」に向かう日だった。
* * *
side 大神 将
銀座の老舗精肉店で特上の松阪牛ブロックと、デパートの地下で天然のヒラメを買い込んだ俺は、変装用のグレーの背広と中折れ帽姿のまま、愛車のダットサン・ブルーバード(普段のオート三輪とは別の、買い出し兼お忍び用の地味な中古車)を神田へと走らせた。
向かう先は、幸子(の霊)が将太の口を借りて直々に指名してきた、「黒川税理士事務所」である。
「……大神社長。お待ちしておりました」
事務所の応接ソファに座るなり、黒川先生は分厚い黒縁眼鏡の奥の鋭い目で俺を見据えた。
元税務署の職員だという黒川先生は、まだ四十代半ばだが、白髪交じりの短髪と一切の隙がないスーツ姿が、いかにも「堅物」というオーラを放っている。だが、その実力は折り紙付きだ。
「黒川先生。先月お願いしていた、例の件は……」
「ええ。片付きましたよ」
黒川先生は、机の上にドンと分厚いファイルを置いた。
「以前、大神社長が経理を任せていたという、あの『笹本』という男。……やはり、絵に描いたような悪党でした。彼は税理士の資格も持たないモグリの帳簿屋でしたが、あなたの会社のどんぶり勘定につけ込み、巧妙に数字を操作して自らの懐に会社の金を流し込んでいましたよ」
「やっぱり……抜かれてましたか」
俺は奥歯を噛み締めた。
独立当初、大熊の親方の知り合いだという理由で、経理のケの字も知らない俺は、会社の金の管理をすべてその笹本という男に任せてしまっていた。
だが、幸子の霊のお告げで黒川先生と契約し、過去の帳簿を洗い直してもらったところ、次々と不審な点が出てきたのだ。
「手口は古く、しかし悪質です。架空の下請け業者への外注費の計上、資材の二重請求、そして職人たちの給与からの謎の天引き……。大神社長が現場にかかりきりで、帳簿など一切見ないのを良いことに、毎月数十万円単位で抜いていました」
当時の数十万といえば、大工が何ヶ月も汗水垂らしてようやく稼げる大金だ。俺の血を吐くような労働の結晶と、大事な職人たちの金が、そんな詐欺師の懐に入っていたのかと思うと、はらわたが煮えくり返る思いだった。
「先生、警察に……」
「その必要はありません」
黒川先生は、冷たい笑みを浮かべて眼鏡を押し上げた。
「私は元税務署の人間です。奴の裏帳簿から、過去数年間にわたる他社での横領と脱税の確たる証拠を全て揃え、ご本人の目の前に突きつけて差し上げました。……奴は顔面蒼白になり、その場で泣き崩れましたよ。大神建設から抜いた金は、利子をつけて全額返還させました。もちろん、二度とこの業界で帳簿を触れないよう、然るべき『制裁』も加えてあります」
「先生……ありがとうございます。本当に、何から何まで……」
俺は深く頭を下げた。
もし、幸子のお告げがなかったら。そのまま笹本に騙され続け、最悪の場合、税務署の査察が入って俺が脱税の濡れ衣を着せられていたかもしれない。幸子は、あの世から俺たちを完璧に守ってくれているのだ。
「お礼など結構です。これが私の仕事ですから。……さて、問題はここからです、大神社長」
黒川先生の声が、一段と低く、重くなった。
彼はもう一つのファイル――証券会社からの取引報告書を開き、俺の前に差し出した。その手は、いつもは微動だにしないはずなのに、かすかに震えているように見えた。
「大神社長。私は先月、あなたの個人資産の管理も任されました。そして、証券会社にあなたの口座の状況を確認しに行き……危うく、腰を抜かすところでした」
「えっと……なにか、マズいことになってましたか?」
「マズい? 逆です。異常事態ですよ」
黒川先生は、眼鏡を外し、眉間を揉むようにして深く息を吐いた。
「あなたが所有している、ネオニック 、日電 、豊原自動車の株式。……証券不況の底値でこれほど大量の優良株を仕込んでいたとは。現在のいざなぎ景気の波に乗り、これらの株の含み益は、すでにあなたが一生、いや孫の代まで遊んで暮らせるだけの莫大な金額に膨れ上がっています。おまけに、配当金だけでそこらの中小企業の年商を軽く超えているんですよ!」
黒川先生の語気が荒くなった。
「大神社長。あなたは今、建設会社の社長などやっている場合ではありません。これだけの資産があれば、立派な邸宅を構え、運転手付きの車に乗り、一流の財界人として振る舞うべきです! それなのに、なぜあなたはボロボロのニッカポッカを履き、安いアパートに住み、昼飯にコッペパンを齧っているんですか!? あなたのやっていることは、経済的合理性から完全に逸脱しています!!」
黒川先生の剣幕に、俺は思わず後ずさりしそうになった。
無理もない。金に厳しい税理士の目から見れば、俺の生活態度は狂気の沙汰だろう。
「……先生」
俺は、帽子を取り、黒川先生の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「俺は、大工しか能がない不器用な男です。現場で汗水垂らして、木と鉄の匂いを嗅いでないと、生きてる気がしねぇんですよ。……それに」
俺は、亡き幸子の言葉を思い出した。
『人間はね、自分より貧乏だった人が急にお金持ちになるのを、一番嫌うのよ。嫉妬は、幽霊よりもずっと怖いの』。
「目立つと、ロクなことがねぇって。……俺の『勘』が、そう言ってるんです。この会社は、俺についてきてくれる職人たちっていう家族を食わせるための、俺の生き甲斐であり、世間の目を誤魔化すためのカモフラージュみたいなもんです。株の金は、将太と直継が大人になるまで、絶対に手はつけません。……だから先生、どうかこのまま、俺の道楽に付き合ってくれませんか」
俺の言葉に、黒川先生はしばらく黙り込み、やがて深く、本当に深い溜息を吐いた。
「……嫉妬の恐ろしさ、ですか。二十代の若さでそこまで達観しているとは。あるいは、やはりあなたには、常人には見えない何かが見えているのかもしれませんね」
黒川先生は眼鏡をかけ直し、居住まいを正した。
「わかりました、大神社長。税務署の調査が入っても、世間のやっかみがあっても、私がこの会社の、そしてあなたの完璧な防波堤になってみせましょう。ただし、その道楽とやらの経理処理は、今後も私に一切を任せていただきますよ」
「ありがとうございます、先生!」
俺は安堵し、深く頭を下げた。
最高の用心棒が、完全に俺の味方になってくれた瞬間だった。
* * *
side 大神建設の職人たち
その日の夜。江東区の赤提灯で、大神建設の職人たち九人が、ジョッキを片手に管を巻いていた。
「しかしよぉ、うちの社長は本当に儲かってねぇんだな。今日も昼間、水道の蛇口から直接水飲んで、コッペパン齧ってたぜ」
「ああ、あのボロボロのニッカポッカ、いつ見ても涙を誘うよな。独立したてで、元請けにペコペコ頭下げて、自分の取り分なんかねぇんじゃねぇか?」
大熊組時代から将についてきた一番弟子の男が、モツ煮込みをつつきながら言った。
だが、若手の一人が不思議そうに首を傾げる。
「でも先輩。うちの会社、給料はめちゃくちゃ良くないですか? 俺、前の現場の倍はもらってますよ。それに、日曜日もキッチリ休めるし、雨の日は『怪我したら元も子もねぇ』って、すぐに休みにしてくれるじゃないですか」
「そうなんだよなぁ……。ボーナスは夏も冬も、会社名入りの手拭い一本と、数千円の寸志だけだけどよ。毎月の給料がこんだけ良けりゃ、文句なんかあるわけねぇ」
「社長、ひょっとして俺たちに給料払うために、借金でもしてんじゃねぇだろうな?」
職人たちは顔を見合わせた。
社長の大神将は、現場では鬼のように厳しいが、仕事が終われば誰よりも職人思いだ。そしてあの、絶対に事故を未然に防ぐ「奇跡の勘」。
彼らの中で、大神将という男は「自分の身を削ってでも部下を食わせる、不器用だが最高に男気のある貧乏社長」として、絶対的な忠誠の対象となっていた。
「……おい、俺たちで社長を支えていくぞ。社長に借金なんか背負わせるもんか。明日からも死ぬ気で働くぞ!」
「おおっ!!」
赤提灯の中に、職人たちの熱い雄叫びが響き渡った。
社長が実は莫大な資産を持つ株の富豪であり、建設会社は半ばカモフラージュのようなものであることなど、彼らは知る由もなかった。




