第8話:昭和の起業と、嫉妬の戒め
1965年(昭和40年)。
この年、日本の総人口は一億人を突破し、初夏には有名な4人組ジ・アントラーズが来日して日本中を熱狂の渦に巻き込んだ。後に「いざなぎ景気」と呼ばれる未曾有の好景気の入り口に立ち、世間はどこか浮き足立ったような明るさに満ちていた。
そんな時代の中、俺、大神将太は四歳になった。
相変わらず幼稚園や保育園には通わず、日中は向かいの鈴木家で過ごしている。
昭和40年代の下町では、共働きや片親の家の子を近所が預かるのはそれほど珍しいことではなかった。ましてや、月謝(最近では父さんの羽振りが良くなり、こっそり二万円に増額されている)をきっちり払っているのだから、ヨシエおばちゃんも「将太と直継はうちの子みたいなもんさ」と笑って受け入れてくれている。
中学三年生になった恵子ねえちゃんに甘えながら、三歳になった直継(相変わらず鼻水を垂らし、鈴木家の三郎や四郎と泥まみれになってプロレスをしている)を微笑ましく眺めるのが、俺の日常だった。俺の肉体改造も直継の「重戦車化&勲章三センチ固定化」も、すこぶる順調に推移している。
だが、俺には最近、少しばかり気がかりなことがあった。
それは、我が父・大神将(26歳)の動向である。
父は今年、長年世話になった大熊組から円満に独立し、自らの会社「大神建設」を立ち上げた。
いわゆる一人親方からの脱却である。「奇跡の大神」「あの男の勘に従えば現場の事故を防げる」という業界内での謎の神格化に加え、俺が魔法で密かに危険を回避させ続けてきたことで、父の名声は確固たるものになっていた。独立するや否や、元請けのゼネコンから名指しで仕事が舞い込み、すでに数人の若い衆を雇い入れるほどの好調ぶりを見せている。
さらに、前年に「幸子(俺)の遺言」として全財産を突っ込んだネオニックスや豊原自動車などの優良株も、景気回復の波に乗って順調に値を上げ始めていた。資金的な余裕は十分すぎるほどあるのだ。
それ自体は、俺の「メジャーリーグ挑戦と栄光の未来に向けた盤石な育成環境の構築」という目的からすれば大歓迎なのだが……。
問題は、父が少々「調子に乗り始めている」ことだった。
「おう将太、直継! 父ちゃん帰ったぞ! ほれ、今日は家のケーキ買ってきたぞ!」
ある日の夕方、鈴木家に迎えに来た父は、仕立ての良い真新しい背広を着込み、髪にはポマードをテカテカに光らせていた。手には、当時としてはかなりの高級品である富二家のショートケーキが詰まった箱が提げられている。
鈴木家の男連中は「うおー! ケーキだ!」と大喜びし、ヨシエおばちゃんは「将さん、またこんな高いものを……最近、ずいぶん羽振りがいいねぇ」と、半分感心し、半分呆れたような顔をしていた。
(……マズいな。非常にマズい)
俺は、ケーキの上のイチゴを直継に強奪されながら、冷静に状況を分析していた。
前前世で社畜のサラリーマン課長だった俺は、会社の立ち上げ期における「どんぶり勘定」の恐ろしさをよく知っている。職人上がりの父には、経理や税務の知識など皆無だ。入ってきた金をそのまま自分の金と錯覚し、税金対策もせずに気前よく使っていれば、あっという間に黒字倒産するか、税務署に踏み込まれて身包み剥がされるのがオチである。
加えて、「嫉妬」という感情の恐ろしさだ。
昨日まで同じ安アパートでひもじい思いをしていた若造が、急に背広を着て良い物を食い始めたら、周囲の職人や下請け仲間はどう思うか。必ず足を引っ張る奴や、金の無心に来る奴が現れるに決まっている。
(優秀な税理士をつけて会社の財布の紐を締めさせ、さらに親父の浮かれた態度を修正しなければ)
俺はケーキを食べ終えると、縁側の隅で一人ブロック遊びをするふりをしながら、勇者の魔力を研ぎ澄ませた。
『広域情報検索』の魔法を発動し、昭和40年の東京・江東区周辺に限定して情報を走査する。求める条件は「中小企業の税務に強く」「口が堅く」「余計な詮索をしない」「数字に厳格な」税理士。
数分の走査の後、俺の脳内に一つの名刺の映像が浮かび上がった。
神田に事務所を構える『黒川税理士事務所』。所長の黒川は元税務署の上がりで、裏表のない堅物だが、顧客の会社を守るためには税務署相手でも一歩も引かないという、職人肌の男らしい。
(よし、ターゲットは決まった。あとは親父に、どうやってこの男と契約させるか、だな)
答えは決まっていた。
父を一番確実に動かせるのは、俺の言葉でも、鉄男おじさんの説教でもない。
死んだ女房からの、ありがたい「お告げ」である。
* * *
その日の深夜。
四畳半のアパートで、いびきをかいて眠る直継の横で、父さんは機嫌よく寝返りを打っていた。
俺はむくりと起き上がり、前回の降霊の時と同じように、室内の気温を一気に数度下げた。すーっと冷たい風が、父の顔を撫でる。
「……んぅ……う、寒い……」
父が身震いして目を覚ました。
暗闇の中、俺は父さんの枕元に正座し、白目を剥いて、口から微かに白い息を吐きながら父さんを見下ろしていた。
「ひっ!? し、将太……?」
父がギョッとして体を起こす。
俺はスッと手を伸ばし、父の腕を冷たい手で掴んだ。そして、魔力で調整した「亡き母・幸子」の声を響かせた。
『……あなた。私よ。幸子よ』
「さ、幸子……! また、将太の体に降りてきてくれたのか……!」
父は怯えるどころか、むしろ感動したように俺の(幸子の)手を両手で包み込んだ。前回、「再婚してもいい」「遊んでもいい」と許しを与えたことで、父の中での幸子の霊は、完全に「守護天使」のような扱いになっているらしい。
だが、今日の俺は少し厳しめにいく。
『あなた。最近、ずいぶんと良い背広を着ているわね。ケーキも買ったりして……仕事が上手くいっているのは、天国から見ていて私も嬉しいわ』
「お、おう。幸子が教えてくれたお馬さんと、あの紙切れ……株だっけ? あれのおかげで、今は本当に金に困らなくなった。会社も作ったんだ。俺、社長になったんだぞ!」
父が誇らしげに胸を張る。
俺は、能面のような無表情のまま、冷ややかな声を出した。
『馬鹿ね』
「えっ?」
『お金が入ったからって、そんな風に外で羽振りの良さを見せびらかしてどうするの。職人さんたちや、ご近所さんの目がどう変わるか、分からないの?』
父さんの顔から、サッと血の気が引いた。
『人間はね、自分より貧乏だった人が急にお金持ちになるのを、一番嫌うのよ。今はニコニコしていても、陰で何を言われるか分からない。足を引っ張られるわ。お金を貸してくれってすり寄ってくる悪い虫もつくわよ』
「あ……いや、俺は別に、自慢したくてやってるわけじゃ……」
『なら、明日からあの背広は仕舞いなさい。社長になったからって、あなたは元々泥だらけになって働く大工でしょう? 外では、今まで通り穴の空いた作業着を着て、「いやぁ、独立したはいいけど火の車で、毎日もやし炒めですよ」って、貧乏社長のふりをしなさい。……嫉妬は、幽霊よりもずっと怖いのよ』
前前世の社畜時代に培った、生々しい人間関係の真理である。
幽霊である幸子に「幽霊より怖い」と言われたことで、説得力は倍増したのだろう。父はガチガチと歯を鳴らして頷いた。
「わ、わかった。幸子の言う通りだ。俺が浮かれてた……明日から、前と同じニッカポッカで行くよ」
『ええ、そうしてちょうだい。……それとね、あなた。会社の税金、どうしてるの?』
「ぜ、ぜいきん? いや、大熊の親方の紹介で、適当な帳簿屋に……」
『だめよ。そんなのじゃ、すぐにお金を持っていかれちゃうわ』
俺は、暗記しておいた神田の税理士の電話番号を、ゆっくりと読み上げた。
『〇三ー×××ー〇〇〇〇。……神田の、黒川先生という税理士さんよ。明日、すぐにここに電話して、会社の経理と税金のことを全部任せなさい。この人は、絶対にあなたを裏切らないわ。……いいわね?』
「く、黒川先生だな。わかった、明日一番で電話する」
素直でよろしい。
これで、会社の経理のどんぶり勘定化と、外からの嫉妬による足引っ張りは防ぐことができる。
だが、ただ締め付けるだけでは、父のモチベーションが下がってしまうし、何より俺のクオリティーオブライフが下がりかねない。
俺は、白目を少しだけ緩め(暗闇なので父さんには見えないが)、声のトーンを優しくした。
『……でもね、あなた。外では貧乏を演じても、家の中では、ちゃんと美味しいものを食べてちょうだいね』
「家の中では……美味しいものを?」
『ええ。将太も直継も、これからどんどん体が大きくなる時期よ。ひもじい思いをさせたくないの。鈴木のヨシエさんには内緒で、週に何度か、家でこっそり三人で、お肉やお魚をたくさん食べて。……あなたも、しっかり栄養をつけて、長生きしてね』
父の目から、再びボロボロと涙が溢れ出した。
「幸子ぉ……っ! お前ってやつは、本当に、俺たちのことばっかり……っ!」
『約束よ、あなた。お肉、いっぱい食べさせてあげてね。すき焼きとか、ビフテキとか……」
「ああ! 約束する! 将太と直継には、腹がはち切れるくらい一番美味いもんを食わせてやるからな!」
よし、言質は取った。
俺は安心し、スッと魔力を霧散させて、父の腕の中で眠りに落ちる(ふりをする)のだった。
* * *
翌日からの父の変わり身の早さは、見事なものだった。
仕立ての良い背広はタンスの奥に封印され、再びペンキと泥に塗れたニッカポッカと地下足袋姿で現場に現れるようになった。
鈴木家に月謝を渡しに来る時も、以前のような有名店のケーキではなく、近所の駄菓子屋で買った安い煎餅や、傷物のりんごなどを持ってくるようになった。
「いやぁ、ヨシエさん。社長になったなんて言っても名ばかりで、下請けに払う金でスッカラカンですよ。今日も昼飯は立ち食いそば一杯ですわ、ハハハ」
父が頭を掻きながらそう言うと、ヨシエおばちゃんも「将さんも苦労してるねぇ。ほら、夕飯のおかずの残り、持っていきな!」と、タッパーに入れた肉じゃがを渡してくれたりした。完璧な貧乏カモフラージュである。
そして、俺が教えた黒川税理士との契約も無事に済んだらしい。父の机の上に、分厚い帳簿と、黒川先生からの厳しい指示書きが置かれているのを確認した。これで大神建設の財務基盤は盤石だ。
そして、何よりも素晴らしい変化は、俺たち家族三人の食生活だった。
休日の夜。鈴木家には「今日は家でそうめんでも食います」と言って断りを入れ、四畳半のアパートの窓とカーテンをしっかりと閉め切る。
そして、ちゃぶ台の上には、肉屋でこっそり買ってきた特上の黒毛和牛の分厚いステーキ肉が、ジュウジュウと音を立ててフライパンで焼かれていた。
「ほら将太、直継。かーさんとの約束だからな。誰にも内緒だぞ。いっぱい食え!」
父が、ハサミで小さく切ったレアのステーキ肉を、俺と直継の皿に山盛りに乗せてくれる。
直継はよくわかっていない様子で「おにく! おにく!」と手掴みで口に運んでいる。
俺は、肉汁が滴るその肉塊をフォークで刺し、口の中に放り込んだ。
(……美味いぃ!)
醤油とバターの香ばしい匂いが鼻腔を抜け、脳内が幸せに満たされていく。
「嫉妬を避けるための隠密行動」と「育成環境への投資」を完璧に両立させたこの状況。
俺の栄光の人生ロードは、昭和40年の四畳半に漂う、この極上のステーキの匂いと共に、さらに力強く切り拓かれていくのだった。




