第7話:昭和の底値買いと、幸子の降霊
1964年(昭和39年)の春先。
二度目の「幸子の万馬券」によって手にした大金は、大工の父・将の通帳にずっしりとした重みをもたらしていた。鉄男おじさんと山分けにしたとはいえ、二十五万円という金額は、当時の二十代の職人が数年がかりで貯めるような大金である。
父さんは毎晩、俺たちが寝静まった後にこっそりと通帳を眺めては、ニヤニヤしたり、急に神妙な顔で仏壇に手を合わせたりと、大金を持て余しているようだった。
(……このままではいかん)
向かいの鈴木家から安アパートの四畳半に帰ってきた夜。川の字になって寝ている布団の中で、俺(大神将太・三歳)は狸寝入りをしながら父の背中を見つめていた。
確かに金はできた。だが、これをただ銀行に寝かせておいたり、あるいは家を建てるための頭金などに使われてしまっては困るのだ。
俺の栄光ある人生には文字通り天文学的な資金が必要になる。
昭和39年。歴史を知る前前世の社畜サラリーマンだった俺の記憶が正しければ、今は深刻な証券不況の真っ只中だ。海市證券が日銀特融を受けるほどの恐慌状態であり、日本の株式市場は完全に底値である。
このタイミングで、将来の日本経済を牽引する優良銘柄の株を仕込んでおけば、二十年後には途方もない莫大な資産に化ける。
(父さんの全財産を、投資に回させる。……それも、鈴木家には絶対に内緒で)
前回のように鉄男おじさんたちを巻き込めば、さすがに怪しまれるし、何より「株」という得体の知れないものに手を出すことに猛反対されるだろう。下町の職人気質の人間にとって、株などバクチと同義だ。
ならば、どうするか。
俺は布団の中でニヤリと笑うと、勇者の魔力を静かに練り上げた。
深夜。
父が通帳を仏壇の引き出しにしまい、ようやく布団に入って微かな寝息を立て始めた頃。
俺はむくりと起き上がり、魔力を使って室内の気温を一気に五度ほど急降下させた。冷え切った空気が、四畳半の部屋に重く立ち込める。
「……ん? なんだ、急に冷えるな……将太、布団被って……」
寒さに身を縮めて目を覚ました父が、俺の姿を見てビクッと体を震わせた。
俺は、暗闇の中で正座をし、うつむいたままピクリとも動かずに座っていたのだ。
「し、将太……? どうした? 便所か?」
父が恐る恐る手を伸ばしてきた、その瞬間。
俺はガシッと父の手首を掴み、ゆっくりと顔を上げた。
白目を剥き、微かに口から白い息を吐きながら。そして、三歳児の舌足らずな声帯を魔力で強制的に調整し、亡き母・幸子の声音を完璧に再現した。
『……あなた』
「ヒッ!?」
父が、短い悲鳴を上げて尻餅をついた。
無理もない。三歳の息子の口から、死んだはずの妻の、それも落ち着き払った大人の女の声が発せられたのだから。
『驚かせてごめんなさい、あなた。……私よ、幸子よ』
「さ、幸子……!? お前、将太に……憑いてるのか!?」
父は恐怖と、それ以上の凄まじい郷愁に駆られたのか、涙目になりながら俺の肩を掴んだ。
俺は(内心でノリノリになりながら)ゆっくりと首を横に振った。
『時間がないの。よく聞いて。……あのお金のことよ』
「お、おう。お前が将太の夢で教えてくれたおかげで、あんな大金が……」
『あのままじゃダメ。日本のお金は、これからどんどん紙切れになっちゃうわ。だから、私が言う「会社の紙(株券)」に換えてちょうだい』
俺は、前世の記憶から引き出した証券会社の口座開設の手順と、「ネオニック」「日電」「豊原自動車」という三つの魔法の呪文(銘柄)を、母幸子っぽい声で父の耳に叩き込んだ。
『今はみんなが怖がって株を投げ売りしてるわ。でも、この三つの会社は絶対に大きくなる。将太と直継が大人になる頃には、何十倍にもなってるはずよ』
「ね、ネオニックスと、日電と、豊原自動車だな。わかった。でも株なんて、俺はやり方も……」
『帝都證券の窓口に行けば教えてくれるわ。……それとね、あなた』
俺はここで、さらにアクセルを踏み込んだ。どうせここまでやるなら、徹底的に資金を増やしてやる。
『もう一回だけ、お馬さんを買って。……これで最後にするから』
「えっ? ま、またか?」
『今週末のレースよ。……今持っている貯金、全部賭けて』
「ぜ、全部!? 幸子、そりゃいくらなんでも……!」
俺は魔力を強め、部屋の障子をガタガタと鳴らした。
『信じて。私を信じて、あなた。……それから、このことは鈴木のヨシエさんや鉄男さんには絶対に内緒よ。お金のことで、あの人たちとの関係をこじらせたくないの。あなただけの秘密にしてね』
父は、カタカタと震えながら、大きく何度も頷いた。
よし、これで投資の指示と口止めは完璧だ。
だが、俺はこのまま「金儲けの指示だけして去る霊」で終わらせるつもりはなかった。そんな都合の良い霊では、逆に後で怪しまれるかもしれない。
それに、父の献身には、俺自身も心から感謝しているのだ。
俺は、俺自身(将太)の小さな両手で、父のゴツゴツした頬をそっと包み込んだ。
そして、限りなく優しく、慈愛に満ちた声で囁いた。
『……愛してるわ、あなた』
「幸子……っ」
『私がいなくなって、一人で頑張ってくれて……本当にありがとう。でもね、あなた。まだ二十代なのよ。……いつか、良い人がいたら、再婚してもいいのよ?』
父の目から、堰を切ったようにボロボロと大粒の涙が溢れ出した。
「馬鹿野郎……俺は、お前がいいんだよ。お前じゃなきゃダメなんだ……!」
『ふふっ。嬉しいわ。でも、将太と直継をいびらない、優しい女の人が現れたら、その時は自分の幸せも考えてね。……それまでは、たまに外で遊ぶくらいは構わないわ。男の人だもの。でも、お酒と女遊びは、ちゃんと節制してね?』
生前の幸子が言いそうな(俺の想像だが)貞淑さと寛容さをブレンドした言葉に、父はもう声も出せず、ただ俺の小さな体を抱きしめて号泣し始めた。
「うぅぅ……幸子ぉ……っ! 幸子ぉぉぉ……っ!」
『将太と直継を、よろしくね……あなた』
俺は、父に抱きしめられながら、スッと魔力を霧散させた。
白目を元に戻し、全身の力を抜いて、糸が切れた操り人形のように父の腕の中でカクンと首を折る。
「……んー……とーちゃん、くるしいよぉ」
俺が本来の三歳児の声でむずがると、父はハッとして腕の力を緩めた。
「し、将太! 将太、大丈夫か!?」
「んー? とーちゃん、なんでないてるの……?」
俺が小首を傾げて不思議そうに見上げると、父は「なんでもない、なんでもないんだ」と言って、再び俺をギュッと抱きしめ、いつまでも泣き続けていた。
隣で寝ていた直継は、この騒ぎの中でも大の字になって爆睡し、盛大にいびきをかいている。アホで助かった。
* * *
その週末。
父は大工の仕事を仮病で休み、背広を着込んで出かけていった。
後日、仏壇の引き出しをこっそり覗き見た俺は、そこに証券会社から送られてきた立派な株券の束と、通帳の残高が一旦ゼロになり、その数日後に「ゼロが一つ増えた(万馬券が的中した)」恐ろしい金額が記帳されているのを確認した。
その増えた資金も、父は数日後には全額、幸子の指示通りに優良銘柄の株券へと変えていた。
(よし。これで第一段階の資産形成は完了だ)
縁側で、直継がアリの行列を指で潰しているのを眺めながら、俺は一人ほくそ笑んだ。
昭和四十年の底値で仕込んだネオニック、日電、豊原自動車の株。これを二十五年後のバブル絶頂期まで寝かせておけば、莫大な配当金と天文学的なキャピタルゲインを生み出すはずだ。父は「幸子の遺言」として、絶対にこの株を手放さないだろう。
一方、父の生活態度は見違えるように変わった。
「再婚していい」「たまには遊んでいい」という幸子の(俺の)許しが出たことで、憑き物が落ちたように表情が明るくなり、身だしなみにも気を遣うようになったのだ。
たまの休日には、ポマードで髪を撫でつけ、どこかへ出かけていくことも増えた。(もちろん、月謝を払っている鈴木家に俺たちを預けて、ではあるが)。
ヨシエおばちゃんも、「将さん、最近なんかシュッとしたねぇ。いい人でもできたのかい?」と冷やかしていたが、父は照れくさそうに笑うだけだった。
「しょーちゃん、お父さん、なんだか楽しそうね」
洗濯物を干しながら、恵子ねえちゃんが微笑みかけてくる。
俺は、無邪気な三歳児の笑顔で力強く頷いた。
「うん! とーちゃん、かっこいい!」
父親の精神的安定と、将来の莫大な資金源の確保。
俺のメジャーと栄光の未来への道は、この昭和の埃っぽい下町で、誰にも知られることなく、だが確実に、太く強靭な根を張り始めていたのだった。




