第6話:昭和の三歳の誕生日と、沈黙の万馬券
1964年(昭和39年)、二月十二日。
日本中を熱狂の渦に巻き込んだ東京オリンピックが終わり、祭りの後のような少しの寂しさと、来るべき新たな時代への足音が交差する冬の夜。
俺、大神将太は無事に三歳の誕生日を迎えていた。
向かいの鈴木家の居間では、ちゃぶ台を二つ並べてささやかな誕生日パーティーが開かれていた。
俺の父・将は、去年の現場での奇跡的な事故回避(俺が魔法で助けたやつな)と、直前の危険察知(俺が魔法でアラートを鳴らしたやつね)によって、建設業界の一部で「縁起の良い大工」としてすっかり神格化されていた。そのおかげで仕事の単価も上がり、大熊組での発言力も増し、以前のような殺人的なスケジュールでこき使われることも少なくなった。
父の収入が安定したことで、鈴木家に払う月謝も少し色をつけられるようになり、この家の食卓もずいぶんと落ち着きを見せ始めていた。
「ほら将太、お前が主役なんだから、コロッケもう一個食いな!」
「あーん、しょーちゃんおめでとう!」
鈴木家の大黒柱である鉄男おじさんが豪快に笑い、長女の恵子ねえちゃん(中学二年生)が、口の周りにソースをつけた俺の口元を布巾で拭ってくれる。ちゃぶ台の上には、山盛りのコロッケ、マカロニサラダ、赤いウインナー、そしてバタークリームでデコレーションされたホールケーキが鎮座していた。
弟の直継(二歳)は、すでにケーキの上のドレンチェリーを強奪して顔をベタベタにしている。
(ありがたい。本当にありがたいんだが……)
俺は、もそもそとコロッケをかじりながら、内心で溜息をついていた。
俺の肉体改造プログラム(将来の身長190センチ・超イケメンマッチョ化)は、今のところ完璧に進行している。細胞の分裂速度、骨格の形成、筋肉の素質、すべてが理想的だ。
だが、圧倒的に「高級食材」心の潤いが足りない。
コロッケやウインナーも悪くないが、俺の味覚が求めているのは、もっとこう……滴るような肉汁を湛えた分厚いビフテキや、霜降りのすき焼き、あるいは新鮮で豪華な海の幸なのだ。
せっかくの三歳の誕生日である。
ここは一つ、俺のQOLの為にも、再び『あの手』を使うしかないだろう。
夕食が一段落し、子どもたちが隣の座敷でプロレスごっこを始めた頃。
居間には、晩酌の熱燗を傾ける父さんと鉄男おじさん、そして繕い物をしているヨシエおばちゃんの大人三人だけが残っていた。
俺は、おもちゃのブロックを放り出すと、ペタペタとたどたどしい足取りで大人たちの輪の中へと歩み寄った。
「とーしゃん、おじちゃん、おばちゃん」
「おお、将太。どうした? 眠いか?」
父が、赤くなった顔で俺を膝に抱き上げようとした。
俺はそれを手で制し、三人の顔を順番に、じっと真剣な瞳で見つめた。そして、少しだけ声を潜め、舌足らずな幼児の口調を完璧に装って口を開いた。
「あのね。きのう、おゆめのなかに、かーさんがきたの」
ピタッ、と。
居間の空気が凍りついた。
父の手に持っていたお猪口から、ポタリと酒がこぼれる。鉄男おじさんは咥えていたタバコを灰皿に落とし、ヨシエおばちゃんは縫い針を持ったまま固まった。
無理もない。一年前のあの日、俺が「かーさんがお馬さん食べるって」と伝えた数字が万馬券となり、この家にとんでもない大金をもたらした事実を、この三人は骨の髄まで覚えているのだ。
「さ、幸っちゃんが? 夢に……?」
父が、乾いた唇を舐めながら掠れた声を出した。
俺はコクリと頷いた。事前に『未来視』の魔法で確認しておいた、今週末の東京競馬場のメインレース、大穴となる枠連の数字を頭に思い浮かべる。
「かーさんがね、『しょーちゃん、たんじょうびおめでとう』って。それでね、『おじちゃんとおばちゃんと、とーしゃんに、おうまさんをあげる』って」
「お、お馬さん……! や、やっぱりか……っ!」
鉄男おじさんが、ゴクリと喉を鳴らした。
俺は、小さな指を三本と五本立てて見せた。
「『さん』と『ご』だって。これ、かーさんからの、プレゼントだって」
「3枠と5枠……よし、わかった。おじちゃん、絶対に間違えねぇように買うからな」
鉄男おじさんが身を乗り出し、父も神妙な顔で頷いている。
だが、ここで終わらせては前回の繰り返しだ。俺は、今後この「死んだ母の予言」が近所や親戚に漏れて、妙な騒ぎ(宝くじの番号を教えろとか、宗教じみた相談とか)に巻き込まれるのを防がなければならない。人間、大金が絡むと嫉妬や欲でろくなことにならないのは、前世の経験で痛いほど知っている。
「でもね……かーさん、すごく、こわいかおで、いったの」
俺は、わざと俯き、怯えたような声を出した。
そして、テーブルの下で指先を微かに動かし、魔法を発動させた。
狙うのは、天井からぶら下がっている傘付きの裸電球だ。
「え……? 幸っちゃんが、怖い顔で?」
ヨシエおばちゃんが不安そうに身を乗り出した、その瞬間。
ジジッ……ジジジジッ……!!
突如として、居間を照らしていた裸電球が不気味な音を立てて明滅し始めた。
チカッ! チカッ! と、まるでホラー映画のポルターガイスト現象のように、不規則に光が点滅する。
それだけではない。俺は魔力で室内の気温を一瞬にして数度下げ、窓の隙間から「ヒュゥゥゥッ」という冷たい隙間風を入り込ませた。
「ひっ……!?」
「な、なんだ!? 急に電気が……風が……!」
大人三人が、顔面を蒼白にして身を寄せ合った。
薄暗く点滅する不気味な光の中、俺は三人をジッと見上げ、ゆっくりと口を開いた。
「かーさんね、いったの。『ほかのひとに、いっちゃダメ。……いったら、ゆるさない』って」
バチンッ!!
俺の言葉が終わった瞬間、電球がひときわ眩く発光し、そして元の穏やかな光へと戻った。隙間風もピタリと止む。
居間には、ストーブの上でヤカンがシュンシュンと鳴る音だけが、やけに響いていた。
「…………」
「…………」
「…………」
大人三人は、まるで幽霊でも見たかのように(いや、霊現象だと完全に信じ込んでいるだろうが)、口をパクパクとさせて硬直していた。
「……て、鉄男」
「……ああ、わかってる。将、ヨシエ」
「わ、わかってるよ。誰にも言わない。絶対に、誰にも言わないよ……っ」
ガクガクと震えながら、三人は硬い絆と恐怖で結ばれた沈黙の誓いを交わしたのだった。
* * *
side 鈴木 鉄男
あの夜の恐怖は、一生忘れられねぇ。
将太が「ほかのひとに、いっちゃダメ」と言った瞬間の、あの異常な冷気と、狂ったように点滅する電球。
あれは間違いなく、幸っちゃんの霊がそこにいたんだ。俺たちに恩恵を与えてくれると同時に、「余計な真似をしたら呪い殺す」という、母親としての凄まじい執念を感じた。
俺は翌日の昼休み、誰にも見られないようにこっそりと場外馬券売り場へ行き、なけなしのへそくり五千円と、将から預かった五千円、合わせて一万円を「3-5」の枠連に突っ込んだ。手が震えて、マークカードを塗りつぶすのに苦労したほどだ。
結果は……言うまでもねぇ。
またしても大穴。配当は百円につき五千円。
俺と将の手元には、合わせて五十万円という、当時のサラリーマンの年収にも匹敵する途方もない大金が転がり込んだ。
「……絶対に、誰にも言うなよ。俺たちは、幸っちゃんに生かされてるんだ」
俺は将と二人、札束を前にして、神棚に向かって深く深く土下座をしたのだった。
* * *
数日後。
鈴木家のちゃぶ台の上には、盆と正月がいっぺんに来たような光景が広がっていた。
高級な松阪牛を使った極上のすき焼き鍋が二つ。さらに、特上の握り寿司の桶がドンドンと並び、俺の目の前にはタラバガニの茹でた足が山のように積まれている。
大人たちは「幸っちゃん、いただきます」と神妙な顔で手を合わせ、一郎から五郎までの男兄弟たちは、言葉を発することすら忘れて肉とカニに貪りついていた。
「しょーちゃん、お肉、柔らかくて美味しいね」
恵子ねえちゃんが、卵をたっぷり絡めた霜降り肉を俺の口に運んでくれる。
「うん! おいひい!」
俺は満面の笑みで肉を噛み締めた。
口いっぱいに広がる上質な脂の甘みと、タンパク質の塊。細胞の隅々まで栄養が行き渡り、俺の全身が歓喜の声を上げているのがわかる。
寿司のトロも最高だ。カニの身も分厚い。
これでしばらくは、食の心配をせずに成長に専念できる。
(……いやぁ、本当に便利だな、母ちゃん)
周囲の大人たちに畏怖され、秘密を厳守させるための完璧なスケープゴート。
顔も覚えていない亡き母に少々の申し訳なさを感じつつも、俺は遠慮なくタラバガニの太い足にかぶりついた。
すべては、栄えある人生の為に。
昭和39年の冬。俺の生活水準は、母(の幻影)の庇護と万馬券の恩恵を受け、高止まりしていた。




