第5話:昭和の嫌な予感と、幸子の声
1963年(昭和38年)九月。
東京オリンピックの開会式を翌月に控え、首都の熱気は最高潮に達しようとしていた。どこを見渡しても「突貫工事」の文字が踊り、真夜中であっても重機の轟音とアセチレンランプの眩い光が絶えることはない。
そんな狂騒のただ中で、俺(大神将太・二歳)の父である大神将は、ちょっとした有名人になっていた。
先日、建設現場で数トンの鉄骨の直撃を免れ、無傷で生還した一件が、職人たちの間で尾ひれをつけて広まってしまったのだ。曰く「鉄骨を弾き飛ばした男」、曰く「死神に嫌われた大工」。
「いやぁ、将のおかげでウチの班は引っ張りだこよ! 元請けの偉いさんがな、『あの奇跡の大神を、ぜひ次の大型現場に入れてくれ! 縁起が良い!』って指名してきやがってよ!」
向かいの鈴木家の居間で、晩酌のビールを煽りながら、父の雇い主である大熊親方が豪快に笑っていた。大熊親方は、俺たちの面倒を見てくれている鈴木鉄男おじさんとも昔からの飲み仲間である。
父は「勘弁してくださいよ、ただ運が良かっただけですから」と照れくさそうに頭を掻いていたが、その顔は満更でもなさそうだ。
だが、縁側で弟の直継が鼻に突っ込もうとしていたビー玉を取り上げながら、俺は内心で深くため息をついていた。
(……阿呆かな? そんな役割を求められても困るんだが?)
職人の世界では「現担ぎ(げんかつぎ)」が何よりも重宝される。それは裏を返せば、運気やジンクスといった不確かなものを異常なまでに信奉するということだ。
今回、父が呼ばれたのは、複数の大手ゼネコンと無数の下請け業者が入り乱れる、巨大な共同現場だという。工期はすでにギリギリを通り越しており、各業者が安全確認もそこそこに我先にと作業を進めている、いわば「事故の温床」のような場所だ。
もしそこで、また大規模な事故が起きたらどうなる?
「縁起が良い」と持ち上げられていた父が、今度は一転して「お前が来たせいで事故が起きた」「疫病神だ」とスケープゴートにされ、理不尽に責められる可能性が高い。前世、しがない社畜課長だった俺は、こういう時の組織の掌返しの恐ろしさを嫌というほど知っているのだ。
(とはいえ、一度引き受けた仕事を「縁起が悪いから」と断ることもできないだろう。なら、対策を打つしかない)
俺は、座敷で談笑する父の背中に向けて、そっと右手を翳した。
勇者の力、『アクティブバフ・限定的未来視』の付与だ。
解説しよう。これは、周囲の人間が引き起こす致命的な危険(落下物、崩落、爆発など)の「原因」が形成された瞬間に、対象者の脳内に強烈なアラートを鳴らす魔法だ。
アラートの感覚は、極めて原始的な「強烈な嫌な予感」として知覚されるように設定した。職人は己のカンを信じる生き物だからである。
さらに、俺は少々の「遊び心」――いや、父さんに確実に危険を回避させるための「強力な動機付け」をパッチとして追加した。
アラートが鳴る瞬間、父の脳内にだけ、亡き母・幸子の声で幻聴が響くように設定したのだ。
(『だめ!』とか『そっちに行っちゃだめ!』とか、そんな感じでいいだろう。愛妻家で少し未練がましい父さんのことだ、母さんの声が聞こえたら、何をおいてもその場から離れるはずだ)
魔法の定着を確認し、俺は麦茶を一口すすった。
これで万全だ。俺の栄光の未来は、父の安定した収入と健康の上に成り立っている。己の肉体改造(現在、将来の身長190センチ・超絶イケメンマッチョ化に向けて細胞分裂を促進中)も大事だが、育成環境の防衛も同じくらい重要なのだ。
* * *
side 大神 将
九月下旬。都内某所の巨大ホテル建設現場。
俺たち大熊組の班は、五階部分の内装と枠組みを任されていた。
現場は、一言で言って「戦場」だった。下請け、孫請けの業者が何十社も入り乱れ、あちこちで怒号が飛び交っている。上の階では鉄骨鳶が命綱もつけずに走り回り、すぐ横では別の業者が足場を組んでいる。クレーンは一日中頭上を旋回し、常に何トンもの資材が空を飛んでいた。
「おい大神! そっちの資材、早く奥に押し込んじまえ! 次のが上がってくるぞ!」
「へい、親方!」
俺は汗で顔に張り付く手ぬぐいを拭い、若い衆と一緒に木材の山を運んだ。
「奇跡の大神」なんて呼ばれて持ち上げられているが、俺自身はただ真面目に働くことしかできない。家に帰れば、将太と直継という可愛い二人の息子が待っている。あのすき焼きの夜、俺に「かーさんがお肉食べてって言ってた」と笑った将太の顔を思い出すと、どれだけ体がきつくても力が湧いてくるのだ。
昼前。
俺たちが組んだ枠組みのすぐ外側、建物の外壁部分で、別の下請け業者が巨大な単管パイプの足場を組み上げていた。さらにその上には、クレーンで吊り上げられた大量の資材が、一時置きとして無造作に積まれている。
「……ん?」
その時だった。
背筋を、ぞくりとした悪寒が駆け上がった。
九月の残暑だというのに、まるで氷水を背中に流し込まれたような、強烈な冷たさ。心臓が早鐘のように打ち始め、胃の腑がギュッと縮み上がる。
なんだ、この感覚は。風邪か? いや、違う。
本能が、全身の細胞が「ここから逃げろ」と叫んでいるような、凄まじい『嫌な予感』。
『あなた……!』
――えっ?
不意に、耳元で声がした。
『だめ! 早く離れて!!』
俺は持っていた金槌を取り落としそうになった。
幸子。
間違いない。一年前に死んだ俺の女房、幸子の声だ。切羽詰まった、泣き出しそうな、俺を案じるあの声。
幻聴か? 疲労のせいか?
だが、鉄骨が落ちてきたあの日の奇跡を思い出す。あの時も、俺は死の直前に幸子が突き飛ばしてくれたような感覚を覚えたのだ。
「親方!!」
俺は、理屈よりも先に叫んでいた。
「大熊の親方!! みんな!! 今すぐここから離れてください!!」
「あぁん? なんだ大神、どうしたってんだよ急に」
大熊親方が、咥えタバコを怪訝そうに揺らす。若い衆も手を止めて俺を見た。
「いいから!! お願いです、一回、一階まで降りましょう!! 俺の勘です、なんかヤバい気がするんです!!」
「勘だぁ? 馬鹿野郎、今手ェ止めたら工程が……」
『あなた! だめ!! 早く!!』
幸子の悲痛な叫びが、再び脳内に直接響いた。
俺はもう、なりふり構っていられなかった。親方の腕を掴み、近くにいた若い衆の首根っこを引っ掴んで、半ば強引に階段のほうへと引きずり歩いた。
「おい、痛ぇよ大神! 何すんだ!」
「すんません、後にしてください! 今はとにかく下がってください!!」
俺の只ならぬ剣幕と血走った目に、親方もただ事ではないと察したのだろう。「ちっ、仕方ねぇな、一服すんぞお前ら!」と他の職人たちも急き立ててくれた。
俺たちが五階の作業フロアから、建物の強固なコンクリートのコア部分(非常階段)へと駆け込み、下の階へ向かって数段降りた、その数秒後だった。
ギギギギギギギッ……!!
という、金属がひしゃげる不気味な音が現場全体に響き渡った。
振り返った俺の目に映ったのは、信じられない光景だった。
外壁側に組まれていた他の業者の巨大な足場。そこに過積載されていた資材の重みに耐えきれず、ジョイント部分が次々と弾け飛んでいく。
そして、バランスを崩した巨大な資材の山が、雪崩のように俺たちがつい十秒前まで作業していた五階のフロアへと雪崩れ込んできたのだ。
メキョォォォォォッ!!!
ズドガァァァァンッ!!!!!
天地がひっくり返ったかのような轟音。
俺たちが丹精込めて組み上げた木枠も、置いてあった道具も、すべてが何トンもの鉄パイプと資材の波に飲み込まれ、完全に押し潰された。床が抜け、下の階へと連鎖的に資材が崩落していく。
もうもうと舞い上がる粉塵。他業者の職人たちの悲鳴と怒号。
「…………嘘だろ」
非常階段の踊り場で、大熊親方がタバコを口からポロリと落とし、へたり込んだ。
若い衆も、あまりの惨状に腰を抜かして震えている。
もし、俺の『嫌な予感』がなければ。
もし、幸子のあの声が聞こえていなければ。
俺たちは全員、確実にあの資材の波に飲み込まれ、原型を留めない肉塊に変わっていた。
「……大神。お前……」
「……俺、聞こえたんです。死んだ女房が、『だめ』って、引き止めてくれて……」
俺はその場に崩れ落ち、両手で顔を覆って咽び泣いた。
幸子。お前は、どんだけ俺たちのこと心配してるんだ。天国に行っても、まだ俺を、俺たち家族を守ってくれてるのか。
ありがとう。ありがとう、幸子……っ。
この日、この巨大共同現場では多数の重軽傷者を出す大惨事となったが、直前に作業位置を離れていた大熊組の班だけは、誰一人としてかすり傷一つ負わなかった。
* * *
side 大熊親方(大熊組頭領)
「……おい、聞いたかよ。また大熊んとこの大神がやったらしいぜ」
「ああ、あの『奇跡の大神』だろ? あいつの勘のおかげで、大熊組だけ全員助かったってよ」
「それだけじゃねぇ。大神が『ここはヤバい』って大騒ぎしたおかげで、近くにいた他の業者の奴らも何人か難を逃れたらしいぞ」
数日後。下町の飲み屋で、俺は周囲の職人たちのヒソヒソ話をつまみに、安い日本酒を煽っていた。
現場は大事故の影響で一時ストップ。だが、俺たちの班は被害を免れたため、元請けからの信用はむしろ爆上がりしていた。
「あいつには、間違いなく守護霊がついてるな」
「縁起が良いなんてもんじゃねぇ、あいつは生き神様だよ」
俺は猪口を置き、小さく息を吐いた。
生き神様、ね。
あの時、大神は確かに「女房の声が聞こえた」と言って泣き崩れた。
死んだ幸っちゃんが、あいつと、残された子どもたちを守るために奇跡を起こしている。俺も、そう信じずにはいられなかった。
だがな、幸っちゃん。あんまり将の野郎を助けすぎると、あいつが本当に「生き神様」扱いされちまって、面倒な現場にばっかり回されるようになっちまうぞ。
まぁ、俺が親方として、将の奴はきっちり守ってやるさ。
* * *
「とーしゃん、おかえり」
夜遅く。
鈴木家に俺と直継を迎えに来た父は、泥と埃で真っ白になりながらも、どこか晴れやかな、それでいて憑き物が落ちたような顔をしていた。
「おう、将太。直継。……父ちゃん、帰ったぞ」
父は俺たち二人を同時に抱き上げ、その頬に顔を擦り付けた。
ジョリジョリとした無精髭が痛いが、俺は大人しく抱かれていた。
「将さん、また危ない目に遭ったんだってね!? 本当に、寿命が縮む思いだよ!」
割烹着姿のヨシエおばちゃんが、心配そうに声をかける。鉄男おじさんも腕組みをして深く頷いていた。
「すんません。でも、また幸子に助けられました。あいつの声が聞こえなかったら、俺も親方も今頃死んでましたよ」
父がそう言うと、ヨシエおばちゃんはエプロンの裾で目頭を押さえ、鉄男おじさんは「……幸っちゃんによろしくな」と空に向かって手を合わせた。
(……大成功だな)
俺は父の肩越しに、鈴木家の煤けた天井を見上げながらほくそ笑んだ。
事故を回避しただけでなく、「大神将の勘に従えば助かる」という強烈な実績を作ったことで、父は「縁起が良い」というレベルを超えて、現場での発言力(というより神格化されたカリスマ)を手に入れたようだ。
これで、無能な現場監督の無茶な指示も、父の「嫌な予感がする(※俺の魔法アラート)」の一言で覆せるようになるだろう。安全第一の、理想的な労働環境の完成である。……ちょっとやりすぎな気がしないでものないが。
「しょーちゃん、お腹すいた?」
中学一年の恵子ねえちゃんが、俺の頭を優しく撫でてくれた。
俺は「うん!」と元気よく頷いた。
「きょうは、なにたべるの?」
「今日はね、お父さんがたくさんお給料もらったからって、豚肉の生姜焼きよ! いっぱい食べて大きくなってね」
生姜焼き! 素晴らしい。牛肉のすき焼きに劣るが、偶には食べたい一品だ。
昭和38年の秋。
東京オリンピックの熱狂の裏側で、俺は父の安全を魔法で(密かに)確保しつつ、ひたすらに肉を喰らい、栄光の未来へのロードを着々と築き上げていたのだった。




