第4話:昭和の突貫工事と、見えない加護
1963年(昭和38年)、夏。
日本中が、十月に開催される東京オリンピックという巨大な祭りに向けて狂乱の渦の中にあった。
当時の東京は、現代のクリーンな大都会とはまるで違う。あちこちで道路が掘り返されては土埃が舞い上がり、重機の轟音が絶え間なく響き渡る。まるで街全体が一つの巨大な建設現場のようだった。突貫工事で首都高速道路が天を覆い、鉄筋コンクリートの近代的なビルが雨後の筍のようにニョキニョキと生えていく。
この異常なまでの建設ラッシュは、俺の父である大神将(25歳)のような大工や職人たちに、莫大な仕事と――そして、文字通り命を削るような過酷な労働を強いていた。
「……ん、しょーちゃん、もう起きちゃったのか」
まだ夜も明けきらない、薄暗い早朝。
俺(大神将太・二歳)が布団の中で身じろぎすると、隣で寝ていた父さんが重い体を起こした。寝間着代わりの浴衣から覗く首筋や腕には、無数の小さな傷と、消えきらない疲労の隈が色濃く刻まれている。
父さんは、一歳半の直継の寝顔を優しく撫でた後、俺をひょいと抱き上げた。
「ごめんな。父ちゃん、今日もちょっと早く出ねぇといけねぇんだ。……今日も一日、直継と仲良く、ヨシエおばちゃんの言うこと聞くんだぞ」
25歳。本来ならまだ青年と呼んでいい若さだが、妻を亡くし、乳飲み子二人を抱えた父の背中は、年齢以上に老成して見えた。悲しみを紛らわせるためか、あるいは俺たちの将来の学費を少しでも多く稼ぐためか、父は休みもろくに取らず、ほとんどワーカホリックのように現場に出入りしていた。
当時の建設現場の労働環境は、控えめに言っても最悪だ。労働基準法などあってないようなもので、安全ヘルメットや命綱の着用すら現場によっては徹底されていない。「安全第一」という言葉よりも「工期厳守」が絶対の神だった時代である。
俺は二歳児らしく無邪気な笑顔を作り、短い腕で父の首にギュッと抱きついた。
「とーしゃん、いってらっしゃい。がんばってね」
そう言って、俺は父の広い背中を小さな手で『ポンポン』と二回叩いた。
その瞬間、繊細に操作された魔力を指先から放ち、父さんの肉体に二つの魔法陣を深々と刻み込む。
一つは『極微小・継続回復』の魔法陣。
疲労物質を分解し、睡眠不足による集中力の低下を防ぎ、すり傷程度の怪我なら細胞分裂を促して数時間で治癒させる魔法だ。
もう一つは『将太の加護』、守りの加護の変異版である。
普段は何の効力も発揮しないが、生命に危機が及ぶような強大な物理エネルギー(例えば高所からの落下や、重量物の激突など)を感知した瞬間のみ、自動的に展開される不可視のバリアだ。
(野球のプレイには魔法は使わない。己の肉体と努力だけでメジャーを目指す。……だが、それはそれとして、父さんが過労死したり事故死したりしては元も子もないからな)
俺は心の中で強固な言い訳を構築していた。
前々世で社畜として過労の辛さを嫌というほど味わい、前世で勇者として多くの仲間の死を見てきた俺にとって、家族の命は何よりも重い。それに、父親が死んで孤児院送りになどなったら、野球どころではなくなってしまう。そう、これはあくまで「将来の為の盤石な育成環境の維持」という、必要不可欠な防衛措置なのだ。
「おう。将太も直継も、父ちゃんが絶対でっけぇ男にしてやるからな。行ってくる」
父さんは俺を布団に戻すと、ニカッと笑って仕事着のニッカポッカを穿き、木箱の弁当を提げて家を出て行った。
俺は薄暗い天井を見上げながら、父にかけた魔法の定着を確認し、再び静かに目を閉じた。
その日の午後。
事件は、父の働く都内の大型ビル建設現場で起きた。
* * *
side 大熊親方(建設現場の頭領)
「おい! 三階の足場、ワイヤーの張りをもっときつくしろ! 資材の搬入が遅れてんぞ!」
俺は大声で怒鳴り散らしながら、咥えタバコを吐き出した。
八月の茹だるような暑さの中、現場は地獄のような有様だった。オリンピックに間に合わせるため、元請けからは連日「急げ、急げ」とケツを叩かれる。職人たちは皆、寝不足と疲労で限界ギリギリのところで動いていた。
「大熊の親方! 大工の大神ですが、三階の枠組み、終わりましたぜ!」
下から声がして見下ろすと、頭に手ぬぐいを巻いた大神の若い衆が、汗まみれの顔で笑っていた。
大神将。二十そこそこで上京してきたというが、腕は確かで、何より仕事が真面目だ。去年女房を亡くして乳飲み子を二人も抱えていると聞くが、愚痴一つこぼさず、誰よりも早く現場に入り、誰よりも遅くまで残って仕事をしている。
「おう、ご苦労さん! 大神、ちょっとそこで休んでろ! 今からクレーンで鉄骨を下ろすから、下をウロウロすんじゃねぇぞ!」
俺がそう指示を出した、次の瞬間だった。
バツンッ!!
という、空気を切り裂くような異音が現場に響き渡った。
見上げると、クレーンで吊り上げていた数トンはあるH鋼のワイヤーが、一本、また一本と引きちぎれていくところだった。老朽化したワイヤーが、過積載と金属疲労で限界を迎えたのだ。
「あっ……!」
誰かが息を呑む音がした。
残りのワイヤーが千切れるのに、一秒もかからなかった。
巨大な鉄の塊が、重力に従って一直線に落下していく。その真下には、ちょうど道具を片付けようと身を屈めていた大神の姿があった。
「大神ィィッ!! 逃げろォォォッ!!」
俺は喉が裂けるほど叫んだ。
だが、間に合うわけがない。
――ズドォォォォォンッ!!!
という、大地を揺るがす轟音とともに、鉄骨が足場を叩き割りながら一階の地面に激突した。
もうもうと舞い上がる土埃。
飛び散った木材の破片。
現場は一瞬にして、水を打ったような静寂に包まれた。
「大神……嘘だろ……おい、大神ッ!!」
俺は足場から飛び降りるようにして、落下地点へと走った。周囲の職人たちも、顔面を蒼白にして集まってくる。
あの質量の鉄骨の直撃を食らえば、人間などトマトのように潰れてしまう。ミンチだ。残されたあの子どもたちはどうなるんだ。俺の頭の中は絶望で真っ白になっていた。
「おーい……誰か、手を貸してくれぇ……」
土埃の向こうから、ゴホゴホと咳き込む声が聞こえた。
俺は我が耳を疑った。
「大神!? 大神か!?」
砂煙が晴れたそこにいたのは、奇妙な光景だった。
落下した巨大なH鋼は、地面に深く突き刺さっていた。だが、その鉄骨はなぜか不自然に斜めに傾き、すぐ横にあったコンクリートの基礎ブロックとの間に、わずかな「隙間」を作り出していたのだ。
大神は、その奇跡的な隙間にすっぽりと収まるようにして尻餅をついていた。
「親方……すんません、足場が崩れて、腰抜かしちまいました……」
大神は顔を土埃で真っ黒にしながら、照れくさそうに頭を掻いた。
よく見れば、飛び散った木片で腕や額に擦り傷は負っているものの、手足はしっかりついているし、どこかが潰れている様子もない。
「お前……お前、無事なのか!? あの鉄骨の下敷きになったんじゃねぇのか!?」
「いや……なんか、落ちてくる瞬間、鉄骨がうまいこと、グリンッて軌道が変わって……。気がついたら、この隙間にいて……」
大神自身も何が起きたのか理解できていない様子で、狐につままれたような顔をしている。
周囲の職人たちから、どよめきと、安堵の溜息が漏れた。
何トンもある鉄骨が空中で軌道を変えるなど、物理的にあり得ない。だが、現実に大神は無傷で生きてそこにいるのだ。
「……奇跡だ。お前、神様にでも守られてんじゃねぇのか……」
「神様、ですかね……。俺は、死んだ女房が突き飛ばしてくれたような気がしましたよ」
大神の言葉に、俺は思わず目頭を熱くした。
「……馬鹿野郎が! 心配かけさせやがって! 今日はもう上がれ! 病院で検査してもらってこい!!」
俺は泣き笑いのような顔で、大神の背中を力強く叩いた。
* * *
side 鈴木 ヨシエ
「ヨシエさん! ヨシエさんいるかい!!」
夕飯の支度で台所に立っていた私の耳に、血相を変えた町内会長の声が飛び込んできた。
玄関を開けると、町内会長が息を切らして立っている。
「どうしたのさ、そんな慌てて」
「大神の将さんが! 現場で鉄骨の下敷きになる事故があったって、元請けの会社から連絡が……!」
ガチャンッ!
私の手からお玉が滑り落ち、板の間に転がった。
頭の血が一気に引いていくのがわかった。
「将さんが……? そんな、嘘でしょ……? 命は……命はどうなったのさ!?」
居間で遊んでいた子どもたちが、私のただならぬ声に驚いて集まってきた。恵子が、不安そうに将太と直継を抱き寄せる。
幸っちゃんが亡くなって、まだ一年ちょっとだというのに。将さんまで逝ってしまったら、この小さな二人はどうなってしまうのか。
「ヨシエー! 今の声、本当か!」
ちょうど工場から帰ってきた鉄男が、顔面を蒼白にして駆け寄ってきた。
「鉄男……どうしよう、将さんが、事故で……!」
私が泣き崩れそうになった、その時だった。
「……あの、すんません。騒ぎにしちまって」
ひょっこりと。
本当に、近所の銭湯からでも帰ってきたかのような気軽さで。
額に白いガーゼを当て、腕にいくつかの絆創膏を貼っただけの将さんが、照れくさそうに玄関の前に立っていた。
「将……お前……っ!!」
鉄男が、幽霊でも見たかのように目を剥いた。
「いやぁ、本当に運が良かったっていうか……落ちてきた鉄骨がギリギリで逸れてくれまして。病院で念のために検査したんですけど、擦り傷だけで異常なしって言われました。親方が心配して今日は帰れって言うもんで……」
将さんが頭を掻きながらそう言い終わる前に、私は靴も履かずに土間に飛び降り、将さんの胸ぐらを思い切り掴んで揺さぶった。
「この馬鹿野郎!! どれだけ……どれだけ心配したと思ってんだい!!」
「ヨ、ヨシエさん……?」
「あんたに何かあったら、この子たちはどうなるのさ! 幸っちゃんに顔向けできないだろうが!! 生きてて……本当に、無事でよかった……っ!」
私は将さんの胸に顔を押し当て、大声で泣きじゃくった。
鉄男も、無言で将さんの肩を抱きしめ、男泣きに泣いていた。奥では、事態を飲み込めていない将太と直継が、ぽかんとした顔でこっちを見ている。
「すんません……本当に、すんません。俺、死ぬ瞬間に、幸子の顔が浮かんだんです。幸子が、『まだこっちに来ちゃ駄目』って、俺を突き飛ばしてくれたんだと思います」
将さんも、声を詰まらせながら、ポロポロと涙をこぼした。
幸っちゃん。本当に、あんたは天国からこの人を守ってくれたんだね。
昭和の、埃っぽくて暑い夏の夕暮れ。私たち家族(大神家もとうに家族だった)は、玄関先で人目も憚らずに泣き続けた。
* * *
泣き叫ぶヨシエおばちゃんと、肩を震わせる鉄男おじさん、そして泣き笑いの表情を浮かべる父さん。
恵子ねえちゃんに抱かれながら、俺はその光景を静かに見つめていた。
(……やれやれ。俺が仕込んでおいた『守りの加護・ver.将太』が、完全に発動しちまったらしいな)
俺の目は、父さんの身体の周囲に微かに残る、魔力が弾けた残滓を捉えていた。
あれは物理的な衝撃を完璧に逸らす高度な魔法だが、発動すれば当然、周囲から見れば「あり得ない奇跡」として映る。だが、父も周りの大人たちも、それを「死んだ母さんの加護」として納得してくれたようだ。
俺はそれでいいと思った。
(……本当に良かった。良かったけど、この時期に父さんが事故になんて遭ったっけ? ……ま、いっか)
前世で勇者として世界を救った時は、こんな風に誰かが心から安堵して泣いてくれることなどなかった。
ただ感謝され、畏怖され、そして面倒な政治の道具として扱われるだけだった。
だが、今は違う。
俺には、俺の帰りを待って、俺の無事を泣いて喜んでくれる「家族」がいる。血の繋がりを超えた、この鈴木家という温かい居場所もある。
父が、土間にしゃがみ込み、俺と直継に向かって両手を広げた。
「将太、直継。父ちゃん、帰ってきたぞ」
直継が「あー!」と声を上げて父さんの胸に飛び込んでいく。
俺も、二歳児特有のたどたどしい足取りで、父さんの広い胸の中に飛び込んだ。
汗と、泥と、消毒薬の匂いがした。
生きた人間の、力強い鼓動が聞こえた。
「とーしゃん、おかえり」
俺は父の首に抱きつきながら、決意を改めた。
家族ぐらいは魔法で全力で守ろう、と。




