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昭和転生~異世界帰りの勇者、昭和の球児に転生する~  作者: 熊族騎士団長


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第3話:昭和の大穴と、極上すき焼きの夜

 1963年(昭和38年)。

 この年、日本は秋に控えた東京オリンピックに向けて異様な熱気に包まれていた。街の至る所で道路が掘り返され、突貫工事でビルが建ち、首都高速道路が天を這うように伸びていく。白黒テレビからは連日、華々しい未来を予感させるニュースが流れ、人々は泥まみれになりながらも明日への希望に満ちていた。

 そんな高度経済成長の波は、しがない下町の職人や大工たちの生活にも確実に変化をもたらしていた……はずなのだが。


「こら次郎! 三郎! 家の中で暴れんじゃねぇ! 床が抜けるだろうが!」

「うるせぇな母ちゃん! 俺は王貞治になるんだよ!」

「バカ言え、お前なんか三振ばっかりじゃねぇか! いてっ、四郎、噛みつくな!」

「ぎゃああああああっ!!」


 向かいの家、鈴木家は今日も朝から戦場だった。

 木造モルタル二階建ての家屋は、男の子五人が暴れ回るせいで常に床が軋み、障子や襖はすでに原型を留めないほど穴だらけになっている。内職の手を止めて怒号を飛ばすヨシエおばちゃん(38歳)の声が、江東区の空に響き渡っていた。


 俺、大神将太(二歳)は、縁側に座ってそのカオスな光景を冷めた目で見つめていた。隣では、同い年くらいである鈴木家の五男が、鼻水を垂らしながら泥団子を口に入れようとしているのを、長女の恵子ねえちゃん(中学一年生・13歳)が慌てて止めている。彼女は荒くれ者の男兄弟の中で育ったため芯が強く、それでいて面倒見の鬼だ。座敷の奥では、俺の一歳の弟である直継が、よだれまみれで長男の一郎にいちゃん(中学三年生・15歳)の学生服のボタンをしゃぶっていた。血気盛んな弟たちを物理的に制圧できる一郎にいちゃんも、赤ん坊の直継にはされるがままだ。


 俺のイケメン化計画は順調だった。勇者としての魔力を繊細に操り、将来190センチの筋肉質で、かつ超絶イケメンになるようDNAに働きかけている。さらに直継に対しても、将来女遊びで身を持ち崩さないよう、男の象徴を三センチの包みのまま一生固定するという愛に満ちた呪いをかけ、その分体格だけは193センチの重戦車になるよう設定済みだ。


 だが、俺には一つ、重大にして切実な悩みがあった。

 それは「食欲」である。


 鈴木家は八人家族。そこに俺と直継が加わり、計十人の大所帯だ。町工場の熟練工である鉄男おじさん(42歳)の稼ぎと、俺の父・将(25歳)が払う月謝一万円があるとはいえ、男児ばかりの底なしの胃袋を満たすのは至難の業だ。

 食卓に並ぶのは、山盛りの麦飯、大根とワカメの味噌汁、そして塩鮭の切り身か、安いサンマ、すいとん、よくて薄っぺらい鯨肉の竜田揚げくらいのもの。野菜はキャベツの塩揉みや沢庵ばかり。

 強靭な筋肉と骨格を作るには、肉が必要だ。牛だ。豚だ。鳥だ。

 特に、あの甘辛い割り下で煮込んだ「すき焼き」が無性に食いたかった。前世、しがない野球好きの社畜サラリーマン課長だった頃のご馳走といえばすき焼きだった。だが、当時の一般家庭にとって牛肉は、盆か正月、あるいは誰かの誕生日という特別な日にしか口にできない超高級品だった。


(野球のプレーに魔法は使わないと誓ったが……食生活の改善、ひいては強靭な肉体を作るための資金調達だと思えば、これはいわば『環境整備』だ。……ノーカンだな、うん。)


 俺は心の中で都合の良い言い訳を構築すると、こっそりと『未来視』の魔法を発動させた。

 視界の先に、近い未来の映像がノイズ混じりに浮かび上がる。照準を合わせたのは、今日、日曜日に行われる東京競馬場のメインレースだ。俺は網膜に焼き付いた「4枠と7枠」という数字と、それが誰も予想だにしない大穴の万馬券となる未来をしっかりと記憶に留めた。


 居間を覗くと、ステテコと腹巻き姿の鉄男おじさんが、ちゃぶ台でハイライトをふかしながら、眉間に深い皺を寄せて競馬新聞の馬柱を睨みつけていた。ラジオからは、競馬場特有のファンファーレと、アナウンサーの早口な実況が微かに流れている。鉄男おじさんは、男ばかりの子供たちを鉄拳制裁でまとめる昭和の親父だが、根は真面目で、小遣いの範囲でたまに馬券を買うのが唯一の楽しみだった。


 俺は立ち上がり、二歳児特有のたどたどしい足取り(我ながら完璧な演技)で、鉄男おじさんの膝元へと擦り寄った。


「おじちゃん」

「おお、将太か。どうした? 腹減ったか?」


 鉄男おじさんは、機械油の染み付いたゴツゴツした大きな手で俺の頭を撫でた。

 俺は、わざと舌足らずな発音を全開にし、瞳を限界まで潤ませて鉄男おじさんを見上げた。


「あのね、きのう、おゆめのなかでね……かーしゃんが、きたの」


 ピタッ、と。

 鉄男おじさんの太い腕の動きが止まった。指に挟んだハイライトから、紫色の煙が真っ直ぐに立ち昇る。

 かーさん。つまり、俺の母であり、直継を産んだ翌日に亡くなった大神幸子のことだ。


「……幸っちゃんが? 将太の夢に、出たのか?」


 俺はこくりと頷き、ちゃぶ台の上に広げられた競馬新聞を短い指で指差した。


「かーしゃんね、おじちゃんに、これと、これ、って。よん、と、なな、って、いってた」


 俺が指差したのは、4枠と7枠の馬番だった。新聞の予想印は真っ白の無印。連対する可能性など万に一つもない、大穴中の大穴である。

 そして、俺はとどめの一撃を放った。小首を傾げ、二歳児の純真無垢な表情を完璧に作り上げる。


「かーしゃんが、おにく、たべてって……おうまさん、たべうの?」


 沈黙が降りた。

 鉄男おじさんは、目を見開き、手元の新聞と俺の顔を交互に見た。その瞳の奥で、驚き、戸惑い、そして深い哀愁が渦巻いているのがわかった。

 よし、完璧な演技だ。これで今日の夕飯は間違いなくすき焼きになる。俺は心の中でガッツポーズをした。


 * * *


 side 鈴木 鉄男


 背筋に、冷たいような、それでいて温かいような、不思議な感覚が走った。

 ハイライトの灰が畳に落ちたことにも気づかず、俺は目の前の小さな将太の顔を見つめていた。


『かーしゃんが、おにく、たべてって……おうまさん、たべうの?』


 二歳の幼児が、競馬の「枠」など理解しているはずがない。「よん」と「なな」という数字も、ただ目に付いた新聞の活字を読んだだけかもしれない。

 だが、死んだ幸っちゃんが夢に出てきたという言葉が、俺の胸の奥深くに突き刺さって離れなかった。


 幸っちゃんは、本当に優しくて控えめな、芯の強い女だった。大工の将の野郎に惚れ込んで、20歳の時に上京してきた将を支え、貧乏を承知で一緒になった。だが、直継を産んだ直後に、我が子の顔を満足に見る間もなく逝っちまった。

 残された将太と直継をうちで引き取ってから一年余り。将の野郎は、幸っちゃんを喪った悲しみを紛らわせるように、憑かれたように仕事に打ち込んでいる。あの痩せ細った背中を見るたびに、俺は不甲斐なさと申し訳なさで胸が締め付けられる思いだった。

 そして将太だ。この子は、まるで自分が母親を奪ってしまったことを理解しているかのように、手がかからない。夜泣きもせず、同い年のうちの五郎に突き飛ばされても怒らず、いつもニコニコと弟の直継の頭を撫でている。その健気さが、余計に涙を誘うのだ。


(幸っちゃん……お前、あの世からこの子たちのことを見てるのか……)


 最近、俺の稼ぎだけでは食卓に満足な肉を並べてやれていなかった。男ばかりの食べ盛りの子供たちに、ひもじい思いをさせている。ましてや、他人の子である将太たちにまで、ひもじい思いをさせている。一家の大黒柱としての情けなさが、俺の胸の奥には常にあった。


「……お馬さんは食べねぇよ、将太。お馬さんが、お肉に化けるんだ」


 俺はタバコを灰皿に揉み消すと、立ち上がって座布団の下から財布を引っ張り出した。

 競馬のセオリーから言えば、4枠と7枠の組み合わせなど絶対にあり得ない。大本命の馬がいて、そいつがコケるなんてことはまずないレースだ。ドブに金を捨てるようなものだ。

 だが、これはギャンブルじゃない。幸っちゃんからの、メッセージだ。


「ヨシエ! ちょっとタバコ買ってくらぁ!」


 俺は玄関から飛び出し、下駄を突っかけて自転車にまたがり、近くの場外馬券売り場へとペダルを全力で漕いだ。

 財布の中には、今週の小遣いと、へそくりを合わせた「三千円」が入っている。当時の三千円は大金だ。だが、俺は場外馬券売り場の鉄火場のような熱気の中、迷うことなく、4-7の枠連に三千円全額を突っ込んだ。

 もし外れても、それはそれでいい。将太が見た幸っちゃんの夢の代金だと思えば、安いもんだ。そう自分に言い聞かせた。


 家に戻り、ちゃぶ台の前で正座をして、固唾を呑んでラジオにかじりついた。

 実況のアナウンサーの声が、次第に熱を帯びていく。

『さあ第4コーナーを回って直線! 先頭は……おおっと! 本命馬が失速! 本命馬が馬群に沈んだ! 代わって外から猛烈な勢いで追い上げてくるのは無印の7枠! そして内を突いて4枠だ! 4枠、7枠、この二頭が並んでゴールイン! なんと、大波乱となりました!』


「…………マジかよ」


 俺は、握りしめていた馬券とラジオを交互に見て、呆然と呟いた。

 配当は、百円につき八千円の大穴。

 三千円買っていた俺の手元には、二十四万円という、俺の月給の数ヶ月分にも匹敵する途方もない大金が転がり込むことになったのだ。手が、小刻みに震えていた。


「……幸っちゃん。ありがとよ」


 俺は、縁側で直継のよだれを拭いている将太の小さな背中を見つめ、そっと手を合わせた。


 * * *


 side 鈴木 ヨシエ


「ええっ!? あんた、これ、どうしたのさ!?」


 日曜の夕方。内職の納品から帰ってきた私の目の前に、信じられない光景が広がっていた。

 台所の板の間に、肉屋の包み紙が山のように積まれている。それも、ただの肉じゃない。「特上牛ロース」と筆書きされた、見たこともないような見事な霜降りの牛肉が、どどんと数キロはあろうかという塊で鎮座していた。さらに、八百屋で買い占めてきたのか、長ネギ、春菊、焼き豆腐、しらたき、そして高価な卵がパックごといくつも並んでいる。


「へへっ、ちょっと臨時収入があってな。今日はすき焼きだ!」


 鼻息を荒くした鉄男が、腕まくりをしながらドヤ顔で笑った。

 普段なら「無駄遣いして!」と雷を落とすところだが、この圧倒的な光景の前には怒る気すら起きなかった。


「臨時収入って……あんた、また競馬かい? それにしても、こんな大金……」

「将太が教えてくれたんだよ」

「え?」

「将太の夢に、幸っちゃんが出てきてな。『お肉を食べて』って、当たり馬券を教えてくれたんだ。……幸っちゃんのやつ、あの世からあの子たちに、腹一杯食わせてやりたかったんだろうな」


 鉄男の言葉に、私は思わず目頭を熱くした。

 居間を覗くと、将太が弟の直継と、うちの五郎の相手をしてやっている。二歳だというのに、本当に、信じられないくらい賢くて、優しい子だ。幸っちゃんが、この子たちを守ってくれている。そう信じずにはいられなかった。


「……そうかい。幸っちゃんがねぇ。……よし、わかった! 今日はあたしが、腕によりをかけて極上のすき焼きを作ってやるよ! あんたたち、座敷の掃除しな!」


 私が大声を上げると、一郎から五郎までの男連中が「すき焼きだ!!」「肉だ肉だ!!」と地鳴りのような雄叫びを上げて暴れ回り始めた。恵子が「もう、ほこりが立つでしょ! 次郎、三郎、暴れないの!」と弟たちを叱り飛ばす。

 いつもの、騒がしくて愛おしい鈴木家の日常。

 でも今日は、特別な夜だ。


 やがて、ちゃぶ台を二つ繋げた中央に置かれた鉄鍋から、醤油と砂糖、そして上質な牛脂の焦げる、たまらなく甘く香ばしい匂いが立ち上った。

 ジュウジュウと音を立てて煮える最高級の牛肉。

 子供たちは目を血走らせて鍋を凝視し、鉄男も、今日は無理やり早く帰らせた将さんも、ゴクリと喉を鳴らしている。


「よし、食ってよし!!」


 鉄男の号令とともに、十本以上の箸が四方八方から鍋に向かって突き出された。

 まるで戦場のごとき有様の中、私は一番柔らかくて美味しそうな肉を小皿に取り、生卵を絡めてから、将太の口へと運んでやった。


「ほら、将太。かーさんが食べさせてくれたお肉だよ。いっぱいたおあがり」


 将太は、ぱあっと顔を輝かせ、小さな口を大きく開けてお肉を頬張った。


「おいひい! かーしゃんがおにく、あまくて、おいひい!」


 満面の笑みを浮かべる将太を見て、将さんがポロポロと涙をこぼし始めた。


「幸子……お前、俺たちを見ててくれたんだな……」

「馬鹿野郎、今日は泣く日じゃねぇぞ! 食え食え将! 直継にも食わせてやれ!」


 鉄男が将さんの肩をバンバンと叩く。将さんを大工として尊敬している長男の一郎も、もらい泣きしそうになりながら肉をかき込んでいる。

 私は、将太の小さな頭を撫でながら、心の中でそっと手を合わせた。

(幸っちゃん、ありがとう。この子たちは、私たちがちゃんと立派に育てるからね)


 * * *


 1963年(昭和38年)の夜。

 すき焼きの濃厚な湯気と、鈴木家の男たちの雄叫び、恵子ねえちゃんの呆れ声、そして父さんたちの涙に包まれながら、俺は本当に幸せそうに(というか本当に幸せだった)、もぐもぐと牛肉を噛み締めていた。

 口いっぱいに広がる上質な脂の甘みと、醤油の香ばしさ。最高だ。五臓六法に染み渡っていくのがわかる。


(鉄男おじさん、ヨシエおばちゃん、父さん……騙して悪かっ……いや、悪くはねえよな? 俺も美味しくて、大人たちもいい思い出来て、天国の会ったことない母ちゃんもきっと喜んでくれるに決まってる……うん! 三方ヨシ! 万々歳だ)


 熱い肉を飲み込みながら、俺は心に誓った。

 前前世ではしがない社畜、前世では異世界の勇者。そして三度目の人生であるこの泥臭くて温かい昭和の時代から、自分の足と腕と時々魔法だけで、メジャーの舞台へと駆け上がってみせる。

 そのためには、今はとにかく、肉を食うことだ。


「おじちゃん、おにく、おかわり!」


 二歳児の無邪気な声でそう叫ぶと、鉄男おじさんは「おお、食え食え! 今日はいっくらでもあるぞ!」と豪快に笑った。

 俺の栄光のすき焼きロードは、本格的に幕を開けたのだった。

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